乃木中佐は、歩哨のなしたことは、適法の処置としてかえって賞賛した位だったから、陸軍省からどういうことを言ってきても、更に取り合わなかった。
「陸軍卿と知らずして、これを咎めたことは、まず赦すとしても、すぐに陸軍卿であることを告げられてからも、なお頑強に拒んだのは、不穏当である。連隊長がこれに関して相當の警告を与えず、却って歩哨を賞賛した、というのは甚だ宜しくない」というのが、陸軍省の主張だった。
これに対して乃木中佐は次のように述べた。
「いやしくも、陸軍卿が、この位の事を知らないというのが、怪しからぬことである。いずれの衛門でも無断乗り入れはならぬ、となっているのだから、それを咎めたのは当然の処置であって、少しも差し支えない」
「陸軍卿が馬車を降りて徒歩したのは、歩哨が命じたのではなく、陸軍卿が自ら行ったことであるから、それは問題にならぬ」
だが陸軍省ではこれを問題にしただけに、そのままには済まされなかった。遂に乃木中佐に謹慎を命じた。乃木中佐は止むを得ずこの命令に服したが、心の不平は断ち切れなかった。
謹慎中も乃木中佐は平気で外出したり、友人を迎えたりしてしきりに気を吐いていた。長州軍閥の一人であるべき立場にたっていながらも、反抗的気分をもつようになったのは、この件が一つの原因になった。元来負けぬ気の乃木中佐は、押し付けられて来られると、頭を下げることができなかった。
明治十一年八月二十七日、第一連隊長・乃木希典中佐(三十歳)は鹿児島藩士・湯地定之の四女・シズ(静子・二十歳)と結婚した。静子は幼名を「お七」といい、東京の麹町女学校出身だった。
三十歳まで独身でいた乃木中佐は、遂に母・壽子(ひさこ)から「どうじゃね、大概にして、妻を迎えなさい」と強く言われて、しぶしぶ、その気になった。
母が「私が捜してもよい」と言うのを断って、「いえ、自分で捜します」と言って、妻を迎える決心をした。だが、乃木中佐は妻を選ぶことを深く考えてはいたのだ。
乃木中佐は、連隊に出勤し、退勤の時間が来ると、連隊副官・伊瀬知好成(いせじ・こうせい)大尉(鹿児島・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第三連隊長・日清戦争・第一師団参謀長・少将・歩兵第一一旅団長・威海衛占領軍司令官・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・予備役・男爵・貴族院勅選議員・勲一等・功四級)を呼んだ。
乃木中佐は、「外の事でも、一身上の事であるが、急に妻を迎えることになったのじゃ。これから捜すのじゃが、それを、君に頼みたいのじゃよ」と言った。
伊瀬知大尉が「そういうことなら、小官なぞに仰せがなくとも、お国元のご友人やご親戚の間で、いくらでも、人がおられるでしょう」と言うと、乃木中佐は「イヤ、わしは、長州の女が大嫌いであるから、君に頼もうというのじゃ」と答えた。
続けて、「こんなことまで、長州の者に世話をされるのが厭じゃから、君を煩わしたいと思うのじゃ」と言った。伊瀬知大尉が「なるほど」と言うと、「わしは、薩摩の女が好きなのじゃ。どうせ生涯を一つにするのなら、好きな女の方がよいからな」とも言った。
伊瀬知大尉は、乃木中佐の事をよく判っていた。同じ長州人でも、乃木中佐は少し気風が変わっていて、何となく別物扱いをされていたのだ。それで、他国人の自分に、こういう相談をするのだろうと思った。
伊瀬知大尉は、「薩摩の婦人は、他国の人には不向きであります」と言って、次のように説明をした。
「ご承知でございましょうが、薩摩は昔から夫人に対する躾が全然違っておりましたから、夫人の教育なぞは、あまり重んぜられないで、あたかも男と同じように強い女を、勇ましい女を、といった調子に、育て上げるところから、ほとんど男か女か区別のつかぬような女が、多くおりまして、とても他国の人には、世話をすることのできないものと、小官は思っているのでおります」。
ところが、これを聞いた乃木中佐は、「そ、それが、よいのじゃ。男女の別の、はっきりしないのがよい。そういうのを、見つけてくれ」と言ったのだ。
このようにして、頼まれると、伊瀬知大尉も頗るうれしい感じがして、乃木中佐のために、一肌脱ぐ気になったのだ。当時、長州の軍人の中で最も有望視されていた乃木中佐から、薩摩の女を頼まれたことも嬉しかった。
「陸軍卿と知らずして、これを咎めたことは、まず赦すとしても、すぐに陸軍卿であることを告げられてからも、なお頑強に拒んだのは、不穏当である。連隊長がこれに関して相當の警告を与えず、却って歩哨を賞賛した、というのは甚だ宜しくない」というのが、陸軍省の主張だった。
これに対して乃木中佐は次のように述べた。
「いやしくも、陸軍卿が、この位の事を知らないというのが、怪しからぬことである。いずれの衛門でも無断乗り入れはならぬ、となっているのだから、それを咎めたのは当然の処置であって、少しも差し支えない」
「陸軍卿が馬車を降りて徒歩したのは、歩哨が命じたのではなく、陸軍卿が自ら行ったことであるから、それは問題にならぬ」
だが陸軍省ではこれを問題にしただけに、そのままには済まされなかった。遂に乃木中佐に謹慎を命じた。乃木中佐は止むを得ずこの命令に服したが、心の不平は断ち切れなかった。
謹慎中も乃木中佐は平気で外出したり、友人を迎えたりしてしきりに気を吐いていた。長州軍閥の一人であるべき立場にたっていながらも、反抗的気分をもつようになったのは、この件が一つの原因になった。元来負けぬ気の乃木中佐は、押し付けられて来られると、頭を下げることができなかった。
明治十一年八月二十七日、第一連隊長・乃木希典中佐(三十歳)は鹿児島藩士・湯地定之の四女・シズ(静子・二十歳)と結婚した。静子は幼名を「お七」といい、東京の麹町女学校出身だった。
三十歳まで独身でいた乃木中佐は、遂に母・壽子(ひさこ)から「どうじゃね、大概にして、妻を迎えなさい」と強く言われて、しぶしぶ、その気になった。
母が「私が捜してもよい」と言うのを断って、「いえ、自分で捜します」と言って、妻を迎える決心をした。だが、乃木中佐は妻を選ぶことを深く考えてはいたのだ。
乃木中佐は、連隊に出勤し、退勤の時間が来ると、連隊副官・伊瀬知好成(いせじ・こうせい)大尉(鹿児島・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第三連隊長・日清戦争・第一師団参謀長・少将・歩兵第一一旅団長・威海衛占領軍司令官・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・予備役・男爵・貴族院勅選議員・勲一等・功四級)を呼んだ。
乃木中佐は、「外の事でも、一身上の事であるが、急に妻を迎えることになったのじゃ。これから捜すのじゃが、それを、君に頼みたいのじゃよ」と言った。
伊瀬知大尉が「そういうことなら、小官なぞに仰せがなくとも、お国元のご友人やご親戚の間で、いくらでも、人がおられるでしょう」と言うと、乃木中佐は「イヤ、わしは、長州の女が大嫌いであるから、君に頼もうというのじゃ」と答えた。
続けて、「こんなことまで、長州の者に世話をされるのが厭じゃから、君を煩わしたいと思うのじゃ」と言った。伊瀬知大尉が「なるほど」と言うと、「わしは、薩摩の女が好きなのじゃ。どうせ生涯を一つにするのなら、好きな女の方がよいからな」とも言った。
伊瀬知大尉は、乃木中佐の事をよく判っていた。同じ長州人でも、乃木中佐は少し気風が変わっていて、何となく別物扱いをされていたのだ。それで、他国人の自分に、こういう相談をするのだろうと思った。
伊瀬知大尉は、「薩摩の婦人は、他国の人には不向きであります」と言って、次のように説明をした。
「ご承知でございましょうが、薩摩は昔から夫人に対する躾が全然違っておりましたから、夫人の教育なぞは、あまり重んぜられないで、あたかも男と同じように強い女を、勇ましい女を、といった調子に、育て上げるところから、ほとんど男か女か区別のつかぬような女が、多くおりまして、とても他国の人には、世話をすることのできないものと、小官は思っているのでおります」。
ところが、これを聞いた乃木中佐は、「そ、それが、よいのじゃ。男女の別の、はっきりしないのがよい。そういうのを、見つけてくれ」と言ったのだ。
このようにして、頼まれると、伊瀬知大尉も頗るうれしい感じがして、乃木中佐のために、一肌脱ぐ気になったのだ。当時、長州の軍人の中で最も有望視されていた乃木中佐から、薩摩の女を頼まれたことも嬉しかった。