山縣公爵は軍将でこそあったが、和学の造詣が深く、歌の道にかけては、なかなかに長じていたから、一見して、これは辞世の歌であるという事が、分った。
山縣公爵が、「ヤッ、これは」と声を出すと、乃木大将は、「イヤ、素人の作ったものだから、天爾遠波(てにをは)も合うまい。よく直しておいてもらいたいのじゃ、ハッハハハハハ」と笑いに紛らわして、去ってしまった。山縣公爵は、けげんな顔をして乃木大将の後姿を、見送っていたと言われている。
この事が世間にもれて、乃木大将の死後に、山縣公爵は、識者の非難を受けた。いやしくも、山縣公爵のような、歌の上手な人が、この歌を読んでみて、すぐに乃木大将が死ぬという事の感じが起きなかった、というのは、はなはだ不思議な訳で、もし、これを知っておいて、そのままに棄てておいた、とすれば、山縣公爵は、はなはだ情誼の薄い人である、というような非難だった。
翌十二日には、乃木大将は軍務局長の田中義一(たなか・ぎいち)少将(山口県萩市・陸士旧八・陸大八・日清戦争・ロシア留学・日露戦争で児玉源太郎の参謀・少将・軍務局長・中将・参謀次長・陸軍大臣・大将・政界へ転身・政友会総裁・勅選貴族院議員・首相・男爵・功三級・勲一等旭日桐花大綬章)を訪ねた。
田中少将は当時、軍制上の事については、意見を持っていて、陸軍のうちでも、屈指の人物だった。乃木大将は、田中少将を訪ねて、軍制上の話をしていたが、突然次のように言った。
「時に、田中、わしは、お前に、今日は頼みがあって、来たのじゃ……」。田中少将が「ははア、どういう事ですか」と答えると、乃木大将は次のように言った。
「他の事はでもないが、わが陸軍は、日清、日露と、二つの大戦役を経て、にわかに世界に名を成したのであるが、今や、わが陸軍は日本の陸軍でなくして、世界の陸軍である、というような重要な関係に、なって来たのであるから、今後は余程の考えを以って、経営して行かぬと、一大事になろう、と思う」
「わしは我が軍制上について、容易ならぬ危機が含まれている、という憂いを持っているのじゃ。その意見は、かねてしばしば話もしてあるが、今後ともに、君のような少壮の軍将によって、大いに改革をして、もらわなければ困るのじゃ。それについて意見をしたためて来たから、見ておいてくれ」。
田中少将が「ハッ、かねて閣下の御意見はしばしば伺うておりまするし、この御書面は確かに拝見いたしまする」と答えると、乃木大将は「しかし、田中、他人に見せてはいかぬぞ。君が、他人に見せる時は、すでにその議論を実行している時でなければならぬぞ。どうか秘密に伏しておいてもらいたい」と言った。
田中少将が「委細承知いたしました」と答えると、乃木大将は、ズッと立ち上がって「それじゃここで別れる」と言って田中少将の手をぐっと握って「しっかり、頼むぞ」と言って帰りかけた。
玄関を出ると、再び乃木大将は引き返して来て、田中少将の手をグッと握って「よいか、頼むぞ」と繰り返して去って行った。
九月十三日、明治天皇の御大喪が終わったその夜、午後八時頃に、乃木希典大将と静子夫人は、殉死を遂げた。
乃木大将の、気風というものは、厳格なものであったために、陸軍部内には、乃木大将を喜ばない人が多かった。昔からの諺にも「水清ければ魚棲まず」ということもある通り、あまり清廉硬直の人は、却って、その時代には容れられないで、後世になってから光を放つものである。
乃木大将は年金廃止論者だった。軍人が俸給を貰って国家から養われているのは、要するに、戦争が始まった時に死んでくれ、という意味であるから、戦争になって働いたからといって、それが為に、特別の年金を貰うのは、余計なことである。
また、武士というものは、貧乏していてこそ、値打ちがあるので、生活が豊かで、贅沢を覚えるようになっては、武士の本領、というものは無くなってしまう。軍人は、軍人らしい一生を送れば、よいのであるから、余分の金を貰うには及ばない。こう言って乃木大将はしきりに主張した。
けれども、乃木大将一人の主張では、年金を廃するわけにもいかず、また、乃木大将だけには、それを与えない、という事も出来ないから、その主張は乃木大将の思うようにはならなかった。
また、乃木大将のこの議論にはいつも賛成者が少なかった。といって、表面で反対論を唱える者もなく、うやむやのうちに、葬られてしまって、陰になると、乃木大将の悪口を言う者がある、というような訳で、結局、問題にならなかった。
それならば、乃木大将は口ばかりで、潔白な事を唱えて、実際においては、金を欲しがったか、というと、決してそんなことはなかった。
その証拠には、殉死の後を、整理した時、一文の余財もなかった。もし、年金の廃止論は唱えたが、調べてみたら、銀行の預貯金が二冊も三冊もあった、というようなことでは、平生の潔白な議論は、世を欺く手段であったとも言える。
だが、乃木大将の死後においては生前に、沢山貰った金が、一文も無かったのだから、その纐纈は察するに余りあると言える。
しかもその金は、平生、多くの人のために費やしていた、という事実から考えて見れば、乃木大将の精神はどこまでも高名であった。
(「乃木希典陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「東郷平八郎元帥海軍大将」が始まります)
山縣公爵が、「ヤッ、これは」と声を出すと、乃木大将は、「イヤ、素人の作ったものだから、天爾遠波(てにをは)も合うまい。よく直しておいてもらいたいのじゃ、ハッハハハハハ」と笑いに紛らわして、去ってしまった。山縣公爵は、けげんな顔をして乃木大将の後姿を、見送っていたと言われている。
この事が世間にもれて、乃木大将の死後に、山縣公爵は、識者の非難を受けた。いやしくも、山縣公爵のような、歌の上手な人が、この歌を読んでみて、すぐに乃木大将が死ぬという事の感じが起きなかった、というのは、はなはだ不思議な訳で、もし、これを知っておいて、そのままに棄てておいた、とすれば、山縣公爵は、はなはだ情誼の薄い人である、というような非難だった。
翌十二日には、乃木大将は軍務局長の田中義一(たなか・ぎいち)少将(山口県萩市・陸士旧八・陸大八・日清戦争・ロシア留学・日露戦争で児玉源太郎の参謀・少将・軍務局長・中将・参謀次長・陸軍大臣・大将・政界へ転身・政友会総裁・勅選貴族院議員・首相・男爵・功三級・勲一等旭日桐花大綬章)を訪ねた。
田中少将は当時、軍制上の事については、意見を持っていて、陸軍のうちでも、屈指の人物だった。乃木大将は、田中少将を訪ねて、軍制上の話をしていたが、突然次のように言った。
「時に、田中、わしは、お前に、今日は頼みがあって、来たのじゃ……」。田中少将が「ははア、どういう事ですか」と答えると、乃木大将は次のように言った。
「他の事はでもないが、わが陸軍は、日清、日露と、二つの大戦役を経て、にわかに世界に名を成したのであるが、今や、わが陸軍は日本の陸軍でなくして、世界の陸軍である、というような重要な関係に、なって来たのであるから、今後は余程の考えを以って、経営して行かぬと、一大事になろう、と思う」
「わしは我が軍制上について、容易ならぬ危機が含まれている、という憂いを持っているのじゃ。その意見は、かねてしばしば話もしてあるが、今後ともに、君のような少壮の軍将によって、大いに改革をして、もらわなければ困るのじゃ。それについて意見をしたためて来たから、見ておいてくれ」。
田中少将が「ハッ、かねて閣下の御意見はしばしば伺うておりまするし、この御書面は確かに拝見いたしまする」と答えると、乃木大将は「しかし、田中、他人に見せてはいかぬぞ。君が、他人に見せる時は、すでにその議論を実行している時でなければならぬぞ。どうか秘密に伏しておいてもらいたい」と言った。
田中少将が「委細承知いたしました」と答えると、乃木大将は、ズッと立ち上がって「それじゃここで別れる」と言って田中少将の手をぐっと握って「しっかり、頼むぞ」と言って帰りかけた。
玄関を出ると、再び乃木大将は引き返して来て、田中少将の手をグッと握って「よいか、頼むぞ」と繰り返して去って行った。
九月十三日、明治天皇の御大喪が終わったその夜、午後八時頃に、乃木希典大将と静子夫人は、殉死を遂げた。
乃木大将の、気風というものは、厳格なものであったために、陸軍部内には、乃木大将を喜ばない人が多かった。昔からの諺にも「水清ければ魚棲まず」ということもある通り、あまり清廉硬直の人は、却って、その時代には容れられないで、後世になってから光を放つものである。
乃木大将は年金廃止論者だった。軍人が俸給を貰って国家から養われているのは、要するに、戦争が始まった時に死んでくれ、という意味であるから、戦争になって働いたからといって、それが為に、特別の年金を貰うのは、余計なことである。
また、武士というものは、貧乏していてこそ、値打ちがあるので、生活が豊かで、贅沢を覚えるようになっては、武士の本領、というものは無くなってしまう。軍人は、軍人らしい一生を送れば、よいのであるから、余分の金を貰うには及ばない。こう言って乃木大将はしきりに主張した。
けれども、乃木大将一人の主張では、年金を廃するわけにもいかず、また、乃木大将だけには、それを与えない、という事も出来ないから、その主張は乃木大将の思うようにはならなかった。
また、乃木大将のこの議論にはいつも賛成者が少なかった。といって、表面で反対論を唱える者もなく、うやむやのうちに、葬られてしまって、陰になると、乃木大将の悪口を言う者がある、というような訳で、結局、問題にならなかった。
それならば、乃木大将は口ばかりで、潔白な事を唱えて、実際においては、金を欲しがったか、というと、決してそんなことはなかった。
その証拠には、殉死の後を、整理した時、一文の余財もなかった。もし、年金の廃止論は唱えたが、調べてみたら、銀行の預貯金が二冊も三冊もあった、というようなことでは、平生の潔白な議論は、世を欺く手段であったとも言える。
だが、乃木大将の死後においては生前に、沢山貰った金が、一文も無かったのだから、その纐纈は察するに余りあると言える。
しかもその金は、平生、多くの人のために費やしていた、という事実から考えて見れば、乃木大将の精神はどこまでも高名であった。
(「乃木希典陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「東郷平八郎元帥海軍大将」が始まります)