陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

52.田中隆吉陸軍少将(2) 川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用した

2007年03月16日 | 田中隆吉陸軍少将
 第一次上海事変は激烈な戦闘が展開されたが、まもなく停戦協定が結ばれ、5月5日に調印された。

 だが、この直前の4月29日の天長節に、白川義則軍司令官、野村吉三郎第三艦隊司令長官、重光葵公使など日本側首脳部が、一朝鮮人の投げた爆弾によって死傷する事件が起り、重大事件に発展した(白川義則軍司令官死去)。

<田中隆吉陸軍少将プロフィル>

 明治26年7月9日島根県安来市の商家に長男として生まれる。松江中学へ進む。

 明治40年陸軍広島地方幼年学校入学。43年陸軍中央幼年学校入学。

 大正2年3月陸軍士官学校砲兵科卒業(26期)。野砲兵第23連隊(岡山)。

 大正3年陸軍砲兵少尉任官。6年陸軍砲工学校卒業。7年陸軍中尉。結婚。野砲兵第26連隊(朝鮮)。

 大正8年陸軍大学校入学(34期生)。11年 陸軍大学校卒業。野砲兵連隊。

 大正12年陸軍大尉。参謀本部。13年参謀本部支那班(この頃大川周明との関係)。

 昭和2年7月 参謀本部付・支那研究生として北京に駐在(特務機関) 。

 昭和4年8月 砲兵少佐。参謀本部支那課兵要地誌班。5年10月 上海駐在武官。

 昭和7年1月 上海事変。8月 野砲兵第4連隊大隊長。9年3月 陸軍中佐。野戦重砲兵第1連隊付(市川、連隊長は下村定)。

 昭和10年3月関東軍参謀部第2課(情報課)参謀。12年1月 徳化特務機関長を兼務。(対ソ戦略の一環として内蒙工作に従事。徳王と連携して事件を起こす)。

 昭和12年8月陸軍大佐。第19師団(朝鮮)山砲兵第25連隊長。

 昭和14年11月 陸軍省兵務局兵務課長。15年3月 陸軍少将、第1軍(中国)参謀長。

 昭和15年12月 陸軍省兵務局長 16年6月陸軍中野学校長を兼ねる(10月、兼職を免ぜられる) 。

 昭和17年9月東部軍司令部付。11月~12月 初老期憂鬱症状のため国府台陸軍病院に入院。18年3月 予備役編入 。

 昭和20年3月 召集され羅津要塞司令官に任命されるが、阿南惟幾を通じて工作し、神経衰弱の再発を理由に召集解除。

 昭和20年終戦後、宇垣一成を担いで新政党を発足させようとするが宇垣の公職追放のため失敗。

 昭和21年1月 陸軍の内情を明かした「敗因を衝く」を刊行。これによって田中は東京裁判に巻き込まれる。

 昭和21年春 国際検事団に出頭させられる。23年11月 東京裁判終了。

 昭和24年 戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲する9月15日 短刀による自殺未遂。

 昭和47年6月5日直腸癌のため死去。享年78。

 上海時代、田中少佐は中国で暗躍した清朝粛親王の美貌で知的な王女で「男装の麗人」と呼ばれた、川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用したことは良く知られている。