明治四十四年四月、乃木希典陸軍大将は、東伏見宮依仁(ひがしふしみのみや・よりひと)親王・海軍少将(伏見宮邦家親王王子・皇族・海軍兵学校入校・英国留学・仏国ブレスト海軍兵学校卒・海軍少尉・大勲位菊花大綬章・少佐・海軍大学校選科学生・大佐・高千穂艦長・功三級金鵄勲章・春日艦長・少将・横須賀鎮守府艦隊司令官・中将・横須賀鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・大将・軍事参議官・英国差遣・薨去・元帥大勲位菊花章頸飾)に随行して、英国皇帝戴冠式に参列することになった。
東伏見宮依仁親王一行は、四月十二日、「賀茂丸」で英国に向けて横浜港を出港した。
海軍からは東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)海軍大将(鹿児島・英国商船学校卒・浪速艦長・日清戦争・海軍少将・常備艦隊司令官・連合艦隊第一遊撃隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日露戦争・日本海海戦で勝利・海軍軍令部長・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・元帥・大勲位菊花章頸飾・英国メリット勲章・ロイヤルビクトリア勲章ナイト・グランドクロス・仏国レジオンドヌール勲章グランドフィシェ・イタリア聖マウリツィオラゾラ勲章・ポーランド復興勲章一等・ロシア神聖アンナ第一等勲章・スペイン海軍有功白色第四級勲章・従一位・侯爵)が随行した。
当時、海の東郷、陸の乃木と、世界中にその名が轟いている二人が一緒に渡英するというので、その人気は、他の船客のみならず、あらゆる寄港地や訪問地でも沸騰した。
旅行中、乃木大将は何事にも二歳年上の東郷大将を兄として立てたといわれる。だが、この兄弟は、容易な事では口を開かなかった。それぞれ読書をするか、二人で、無言で碁を囲んでいることが多かった。
ある船客のごときは、デッキ・ゴルフで、乃木大将が球を突きそこね、かすかに「あッ!」というのを聞いたのが、乃木大将の声の聞き始めで、聞き終わりであったと、後に語っていた。
二人は英国でも最高の国賓として優遇された。やがて戴冠式も終わり、二人とも英国皇帝から懇篤な御言葉を賜り、表向きの役目を終えた。
二人は、東伏見宮依仁親王に御暇乞いをし、東郷大将はアメリカを訪問して帰国した。乃木大将はドイツ、フランス、オーストリア、バルカン半島諸国を巡り、各地で大歓迎を受けた。
乃木大将は諸国巡りのときは、平生の質素にも似合わず、ベルリンでもパリでも、いつも一流のホテルに泊まり、外出には自動車を用い、宴会のたびごとに白皮の手袋をとりかえ、煙草も上等の品ばかりを吸って、まるで別人のようだった。
それというのは、日本の陸軍大将、伯爵という体面があるからで、乃木大将は、それを汚してはすまないと、心ならずも贅沢な真似をしたと、言われている。
帰国後は、再び質素な乃木大将にもどり、相変わらず、「朝日」をふかしながら、学習院長として、華冑(高貴な生まれの)子弟の薫陶に専念した。
明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇は崩御された。当時、六千万人の国民の誰とてして、悲嘆にくれぬ者はなかった。
乃木大将の憔悴は、傍の見る目も痛々しい位だった。乃木大将は、毎日かかさず殯宮に伺候し、昼は数時間木像のように拝伏黙祷し、夜は必ず御通夜に伺候した。
九月六日、乃木大将は、学習院の生徒を講堂に集めて、御大喪についての心構えを語り聞かせた後、「諸行無常といって、はかりがたきは、人の命である。自分としても、いつ亡き数に入るか、予め知ることができない。しかしながら、前途春秋に富む諸子は、よく勤勉して身を立て、名をあげ、これまで繰り返し申し聞かせたように、真に皇室の藩屏たるの覚悟を忘れないでもらいたい」と、よそながら、永の暇を告げた。
九月十一日、珍しくも、乃木大将は、山縣有朋(陸軍元帥)公爵を訪ねた。山縣は、意外の来訪に驚いたが、快く迎えた。「やア、しばらくじゃったね」。
乃木大将は、姿勢を正しく、山縣公爵に向かって、「このたびは、何とも申し上げようのない事が起こって、お互いに、これ以上の悲しみは無い」と言った。その言っているうちに、もう、乃木大将はさん然として涙を流した。
山縣公爵も、共に涙を抑えて、「イヤ、その事を思うと、悲しみに堪えない。まあ、椅子へかかったら、よかろう」。それから、しばらく椅子によって、いろいろな話をした。
別れに臨んで、乃木大将が、「こういうものができたが、ちょっと、見ておいてくれ」と言って、差し出したものを、山縣公爵が受けて見ると、「うつし世を 神さりましし 大君の みあとはるかに おろかみまつる」と歌が記してあった。
東伏見宮依仁親王一行は、四月十二日、「賀茂丸」で英国に向けて横浜港を出港した。
海軍からは東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)海軍大将(鹿児島・英国商船学校卒・浪速艦長・日清戦争・海軍少将・常備艦隊司令官・連合艦隊第一遊撃隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日露戦争・日本海海戦で勝利・海軍軍令部長・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・元帥・大勲位菊花章頸飾・英国メリット勲章・ロイヤルビクトリア勲章ナイト・グランドクロス・仏国レジオンドヌール勲章グランドフィシェ・イタリア聖マウリツィオラゾラ勲章・ポーランド復興勲章一等・ロシア神聖アンナ第一等勲章・スペイン海軍有功白色第四級勲章・従一位・侯爵)が随行した。
当時、海の東郷、陸の乃木と、世界中にその名が轟いている二人が一緒に渡英するというので、その人気は、他の船客のみならず、あらゆる寄港地や訪問地でも沸騰した。
旅行中、乃木大将は何事にも二歳年上の東郷大将を兄として立てたといわれる。だが、この兄弟は、容易な事では口を開かなかった。それぞれ読書をするか、二人で、無言で碁を囲んでいることが多かった。
ある船客のごときは、デッキ・ゴルフで、乃木大将が球を突きそこね、かすかに「あッ!」というのを聞いたのが、乃木大将の声の聞き始めで、聞き終わりであったと、後に語っていた。
二人は英国でも最高の国賓として優遇された。やがて戴冠式も終わり、二人とも英国皇帝から懇篤な御言葉を賜り、表向きの役目を終えた。
二人は、東伏見宮依仁親王に御暇乞いをし、東郷大将はアメリカを訪問して帰国した。乃木大将はドイツ、フランス、オーストリア、バルカン半島諸国を巡り、各地で大歓迎を受けた。
乃木大将は諸国巡りのときは、平生の質素にも似合わず、ベルリンでもパリでも、いつも一流のホテルに泊まり、外出には自動車を用い、宴会のたびごとに白皮の手袋をとりかえ、煙草も上等の品ばかりを吸って、まるで別人のようだった。
それというのは、日本の陸軍大将、伯爵という体面があるからで、乃木大将は、それを汚してはすまないと、心ならずも贅沢な真似をしたと、言われている。
帰国後は、再び質素な乃木大将にもどり、相変わらず、「朝日」をふかしながら、学習院長として、華冑(高貴な生まれの)子弟の薫陶に専念した。
明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇は崩御された。当時、六千万人の国民の誰とてして、悲嘆にくれぬ者はなかった。
乃木大将の憔悴は、傍の見る目も痛々しい位だった。乃木大将は、毎日かかさず殯宮に伺候し、昼は数時間木像のように拝伏黙祷し、夜は必ず御通夜に伺候した。
九月六日、乃木大将は、学習院の生徒を講堂に集めて、御大喪についての心構えを語り聞かせた後、「諸行無常といって、はかりがたきは、人の命である。自分としても、いつ亡き数に入るか、予め知ることができない。しかしながら、前途春秋に富む諸子は、よく勤勉して身を立て、名をあげ、これまで繰り返し申し聞かせたように、真に皇室の藩屏たるの覚悟を忘れないでもらいたい」と、よそながら、永の暇を告げた。
九月十一日、珍しくも、乃木大将は、山縣有朋(陸軍元帥)公爵を訪ねた。山縣は、意外の来訪に驚いたが、快く迎えた。「やア、しばらくじゃったね」。
乃木大将は、姿勢を正しく、山縣公爵に向かって、「このたびは、何とも申し上げようのない事が起こって、お互いに、これ以上の悲しみは無い」と言った。その言っているうちに、もう、乃木大将はさん然として涙を流した。
山縣公爵も、共に涙を抑えて、「イヤ、その事を思うと、悲しみに堪えない。まあ、椅子へかかったら、よかろう」。それから、しばらく椅子によって、いろいろな話をした。
別れに臨んで、乃木大将が、「こういうものができたが、ちょっと、見ておいてくれ」と言って、差し出したものを、山縣公爵が受けて見ると、「うつし世を 神さりましし 大君の みあとはるかに おろかみまつる」と歌が記してあった。