明治三十一年十月二十五日の閣議で、文部大臣の後任問題が論議された。旧進歩党派は、「自派の尾崎が辞めたのだから、後任は自派から出す」と主張した。
これに対して、旧自由党派は、均勢論の立場から、自派より出したいと強調した。だが、板垣退助内相は、「自派には文部大臣の適任者がいないので、政党以外のから物色した方がよい」と主張した。
そのあと続いて、板垣退助内相は、青木周蔵青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・維新後長州藩留学生としてドイツ留学<二十四歳>・外務省入省・駐独公使<三十歳>・兼オランダ公使・条約改正取調御用係・駐独公使・兼駐オランダ公使・兼駐ノルウェー公使・外務大輔<四十二歳>・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣<四十五歳>・駐独公使・兼駐英公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使<六十一歳>・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・デンマーク王国デュダブネログ勲章グランクロワー・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)を推薦した。
すると大隈重信首相は、「青木は自由派の臭味がある。これはいけない」と言って青木周蔵の文部大臣就任に反対した。
そのあと直ぐに、大隈重信首相は近衛篤麿(このえ・あつまろ・京都・公卿・<近衛文麿の父>大学予備門中退・公爵<二十一歳>・ドイツ留学・ボン大学・ライプツィヒ大学・貴族院議員<二十七歳>・貴族院議長<二十九歳~四十歳>・学習院院長<三十二歳>・枢密顧問官<四十歳>・死去<四十歳>・公爵・従一位・勲二等)が良いと言って推薦した。
これに対して、板垣退助内相は、「近衛は進歩派に近い人物だから不可」と言って反対した。議論は正面衝突となった。
この閣議は、激論の末、まとまらぬまま、翌日を期して散会となった。桂太郎陸相と西郷従道海相は、この閣議は、この閣議に遅れてきたので、この議論に参加しなかった。
翌日の閣議が開催される前に、大隈首相は桂陸相を訪ねて、「文部大臣の後任については心配はいらぬ。すでに党派以外の者からとることに決心している」と語った。
十月二十六日、閣議が再開された。今回は桂陸相も西郷海相も最初から列席した。だが、この会議では、大隈首相は、桂陸相に言った事を翻したので、両派の議論は沸騰した。
桂陸相は、大隈首相は進歩党派の党首の立場から、党派内の要求を無視するわけにはいかないだろうと、大隈首相の立場を理解していた。
しかし、遂に桂陸相は「いやしくも国務を双肩に担っている人物として、優柔不断は禁物である」と大隈首相に忠告した。大隈首相は、沈黙した。
すると、板垣内相が、口を開いて「西郷海相の兼任にしたらどうか。それがいけなければ、桂陸相の兼任にしたらよかろう」と言った。だが、それは難しい事案だった。閣議は進まなかった。
この時、大隈首相が、「それでは、自分は犬養毅(いぬかい・つよし・岡山・慶應義塾・郵便報知新聞社記者<二十五歳>・東海経済新報設立・統計院権少書記官・立憲改進党入党<二十七歳>・衆議院議員<三十五歳>・進歩党・憲政本党結成に参加・文部大臣<四十三歳>・孫文の辛亥革命援助・文部大臣兼逓信大臣・立憲政友会総裁・首相<七十七歳>・5.15事件で暗殺・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)を推薦する」と言った。
大隈首相は立ち上がって、参内しようとした。桂陸相は、大隈首相の袖をつかんで、参内を制止した。そして、次の様に言った。
「文部大臣の後任として犬養毅を奉薦せられるというが、閣議にかけてからすべきではないか」。
ところが、大隈首相は、桂陸相を振り切って、直ちに参内した。だが、大隈首相は、桂陸相の言があったからか、参内はしたが、犬養毅の奉薦はせず、内閣不一致の責任を述べ、進退についての指図を請うた。
今は首相の進退を決すべき時期ではないので、お許しは出なかった。そこで、大隈首相は、犬養毅を文部大臣の後任に奉薦した。
即日裁可があり、翌十月二十七日、犬養毅文部大臣の親任式が挙行された。
大隈首相のとった行動に納得できなかった板垣退助内務大臣は、十月二十九日、参内して辞表を捧呈した。旧自由党派の次の二人の大臣も辞表を提出した。
松田正久(まつだ・まさひさ)大蔵大臣(佐賀・陸軍省入省・フランス留学<二十七歳>・自由民権運動参加・長崎県会議員<三十四歳>・同議長・自由党・九州改進党入党・東洋自由新聞創刊・司法省検事<四十二歳>・鹿児島高等中学造士館教頭・衆議院議員<四十五歳>・立憲自由党・衆議院予算委員長・大蔵大臣<五十三歳>・文部大臣・衆議院議長<五十九歳>・法務大臣・大蔵大臣・法務大臣・男爵・死去<六十九歳>・勲一等旭日桐花大綬章)。
林有造(はやし・ゆうぞう)逓信大臣(高知・戊辰戦争・維新後初代高知県令<二十九歳>・政府転覆を企て逮捕<三十五歳>・入獄・自由党土佐派の領袖・衆議院議員<四十八歳>・逓信大臣<五十六歳>・農商務大臣・予土水産(株)設立<七十二歳>・真珠養殖・死去<八十歳>・従二位・勲四等)。
これに対して、旧自由党派は、均勢論の立場から、自派より出したいと強調した。だが、板垣退助内相は、「自派には文部大臣の適任者がいないので、政党以外のから物色した方がよい」と主張した。
そのあと続いて、板垣退助内相は、青木周蔵青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・維新後長州藩留学生としてドイツ留学<二十四歳>・外務省入省・駐独公使<三十歳>・兼オランダ公使・条約改正取調御用係・駐独公使・兼駐オランダ公使・兼駐ノルウェー公使・外務大輔<四十二歳>・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣<四十五歳>・駐独公使・兼駐英公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使<六十一歳>・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・デンマーク王国デュダブネログ勲章グランクロワー・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)を推薦した。
すると大隈重信首相は、「青木は自由派の臭味がある。これはいけない」と言って青木周蔵の文部大臣就任に反対した。
そのあと直ぐに、大隈重信首相は近衛篤麿(このえ・あつまろ・京都・公卿・<近衛文麿の父>大学予備門中退・公爵<二十一歳>・ドイツ留学・ボン大学・ライプツィヒ大学・貴族院議員<二十七歳>・貴族院議長<二十九歳~四十歳>・学習院院長<三十二歳>・枢密顧問官<四十歳>・死去<四十歳>・公爵・従一位・勲二等)が良いと言って推薦した。
これに対して、板垣退助内相は、「近衛は進歩派に近い人物だから不可」と言って反対した。議論は正面衝突となった。
この閣議は、激論の末、まとまらぬまま、翌日を期して散会となった。桂太郎陸相と西郷従道海相は、この閣議は、この閣議に遅れてきたので、この議論に参加しなかった。
翌日の閣議が開催される前に、大隈首相は桂陸相を訪ねて、「文部大臣の後任については心配はいらぬ。すでに党派以外の者からとることに決心している」と語った。
十月二十六日、閣議が再開された。今回は桂陸相も西郷海相も最初から列席した。だが、この会議では、大隈首相は、桂陸相に言った事を翻したので、両派の議論は沸騰した。
桂陸相は、大隈首相は進歩党派の党首の立場から、党派内の要求を無視するわけにはいかないだろうと、大隈首相の立場を理解していた。
しかし、遂に桂陸相は「いやしくも国務を双肩に担っている人物として、優柔不断は禁物である」と大隈首相に忠告した。大隈首相は、沈黙した。
すると、板垣内相が、口を開いて「西郷海相の兼任にしたらどうか。それがいけなければ、桂陸相の兼任にしたらよかろう」と言った。だが、それは難しい事案だった。閣議は進まなかった。
この時、大隈首相が、「それでは、自分は犬養毅(いぬかい・つよし・岡山・慶應義塾・郵便報知新聞社記者<二十五歳>・東海経済新報設立・統計院権少書記官・立憲改進党入党<二十七歳>・衆議院議員<三十五歳>・進歩党・憲政本党結成に参加・文部大臣<四十三歳>・孫文の辛亥革命援助・文部大臣兼逓信大臣・立憲政友会総裁・首相<七十七歳>・5.15事件で暗殺・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)を推薦する」と言った。
大隈首相は立ち上がって、参内しようとした。桂陸相は、大隈首相の袖をつかんで、参内を制止した。そして、次の様に言った。
「文部大臣の後任として犬養毅を奉薦せられるというが、閣議にかけてからすべきではないか」。
ところが、大隈首相は、桂陸相を振り切って、直ちに参内した。だが、大隈首相は、桂陸相の言があったからか、参内はしたが、犬養毅の奉薦はせず、内閣不一致の責任を述べ、進退についての指図を請うた。
今は首相の進退を決すべき時期ではないので、お許しは出なかった。そこで、大隈首相は、犬養毅を文部大臣の後任に奉薦した。
即日裁可があり、翌十月二十七日、犬養毅文部大臣の親任式が挙行された。
大隈首相のとった行動に納得できなかった板垣退助内務大臣は、十月二十九日、参内して辞表を捧呈した。旧自由党派の次の二人の大臣も辞表を提出した。
松田正久(まつだ・まさひさ)大蔵大臣(佐賀・陸軍省入省・フランス留学<二十七歳>・自由民権運動参加・長崎県会議員<三十四歳>・同議長・自由党・九州改進党入党・東洋自由新聞創刊・司法省検事<四十二歳>・鹿児島高等中学造士館教頭・衆議院議員<四十五歳>・立憲自由党・衆議院予算委員長・大蔵大臣<五十三歳>・文部大臣・衆議院議長<五十九歳>・法務大臣・大蔵大臣・法務大臣・男爵・死去<六十九歳>・勲一等旭日桐花大綬章)。
林有造(はやし・ゆうぞう)逓信大臣(高知・戊辰戦争・維新後初代高知県令<二十九歳>・政府転覆を企て逮捕<三十五歳>・入獄・自由党土佐派の領袖・衆議院議員<四十八歳>・逓信大臣<五十六歳>・農商務大臣・予土水産(株)設立<七十二歳>・真珠養殖・死去<八十歳>・従二位・勲四等)。