陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

613.桂太郎陸軍大将(33)憲政党は、星は勿論、そのほかに四人の入閣を要求してきた

2017年12月22日 | 桂太郎陸軍大将
 大隈重信首相は、旧自由党派と手を切って、旧進歩党派だけで内閣を作ろうと考えていた。

 だが、桂太郎陸相は旧進歩党派だけで、勢力を拡大したら、時局は益々紛糾するであろうと考え、板垣退助内相の辞表は思い止まらせなければならぬと思った。

 それで、桂陸相は十月二十九日、参内して、板垣内相の辞表を聴許せられないように奏上したのだ。この奏上は聞こし召された。

 旧自由党派も黙っていなかった。旧進歩党派と別れて、内閣を倒す方針に移り、憲政党解党を提案した。十月二十九日臨時大会で、憲政党は解散された。その後、旧自由党派のみによる新しい憲政党が発足した。

 これを知った大隈首相率いる進歩派は、憲政党の名称が使用できなくなったので、十一月三日、憲政本党を発足させた。

 明治三十一年十一月八日、局面は行き詰まり、両党派は内部分裂したので、明治天皇の信任を得られず、大隈首相も遂に辞表を捧呈し、憲政党の隈板内閣は総辞職した。

 だが、桂太郎陸相と西郷従道海相は、勅命によって入閣したという経緯から、辞任する必要はないとの下命があった。

 崩壊した隈板内閣の後、山縣系官僚や関係者は、山縣有朋元帥の出馬を要請し、桂太郎大将も、第二次山縣内閣成立に向けて、力を尽くした。

 最初に、元老・井上馨を訪ねた、桂大将は、京都滞在中の山縣元帥の帰京の同意を得て、明治天皇に山縣元帥の召命を上奏した。

 十一月一日、山縣元帥が帰京すると、桂大将は、新橋駅に出迎えて、山縣元帥と共に官邸に入り、山縣元帥に桂大将が考えている政党対策を説いた。

 それは、対立する二政党の中央突貫策をとり、具体的には「自由派の憲政党を引きつけ、地租増徴を含む戦後経営政策の実現を果たす」というものだった。

 十一月二日、元老会議が開かれ、桂大将もこの席に同席した。十一月五日、山縣有朋元帥に組閣の大命が下った。第二次山縣内閣である。

 山縣内閣の苦心した問題は、衆議院対策だった。国民協会以外に与党を持っていない。最善を尽くして政党と温和を図ろうとした。

 内閣の成立の前日、桂太郎陸相は、山縣有朋首相に相談して、憲政党の星亨(ほし・とおる・東京・ヘボン塾(現明治学院大学)・維新後二等訳官・大蔵省租税権助・横浜税関長<二十四歳>・「女王事件」で辞任・英国留学・日本人初の法廷弁護士資格を取得・帰国後司法省付属代言人=弁護士<二十八歳>・自由党入党<三十二歳>・投獄<三十四歳>・米国、カナダ、英国、ドイツに滞在・衆議院議員<四十二歳>・衆議院議長・逓信大臣<五十歳>・東京市会議長・刺殺<五十一歳>)を入閣させようとした。

 桂陸相は、憲政党党首・板垣退助を訪問して意向を聞いた。だが、憲政党は、星は勿論、そのほかに四人の入閣を要求してきた。

 桂陸相は、断然拒絶したが、憲政党と提携したいという意向を示すだけでも、将来、何かの役に立つと考えていたのだ。

 明治三十一年十一月八日、衆議院で議長選挙が行われた。桂陸相は、憲政党利用の着手として、議長を憲政党から出させるよう画策した。

 その結果、この議長選挙では、与党の国民協会は憲政党と協力し、進歩党から構成されていた憲政本党に対立する構図となった。

 議長選挙の結果、議長と副議長が次のように当選した。

 議長は、憲政党・片岡健吉(かたおか・けんきち・高知・京都奉行<二十三歳>・戊辰戦争・陸軍参謀中老職<二十四歳>・維新後ロンドン留学・海軍中佐<二十九歳>・立志社初代社長・入獄・高知県会初代議長<三十五歳>・国会期成同盟代表・入獄・衆議院議員<四十六歳>・衆議院議長<五十四歳>・日本基督教団高知教会長老・東京YMCA第四代理事長・同志社第五代社長・死去<五十九歳>・正四位・勲三等旭日中綬章)。

 副議長は、国民協会・元田肇(もとだ・はじめ・大分・東京帝国大学法科卒・弁護士・衆議院議員<三十二歳>・衆議院副議長<四十歳>・逓信大臣<五十五歳>・鉄道大臣・衆議院議長<七十歳>・枢密院顧問官・死去<八十歳>・正三位・勲一等旭日大綬章)。