陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

671.梅津美治郎陸軍大将(11)父は日記も書かない。手帖もつけない。歌や詩も詠まない。遺書もない

2019年02月01日 | 梅津美治郎陸軍大将
 長男・梅津美一氏(東京帝国大学在学中に学徒出陣・海軍予備学生・海軍少尉・戦後東京裁判で父の副弁護人)の回想は次の通り(要旨抜粋)。

 父の性格は、一言でいえばセンチメンタリズムの無い現実主義者、合理主義者といえよう。そして、その性格は、石橋を叩いても渡らないという慎重さで裏打ちされていた。

 例えば、父は四十歳近くになって結婚した。そして数年後に、姉と私を残して母に死別したが、遂に再婚しなかった。

 これは、継母を迎える子供たちの哀れさを考えたのは勿論であろうが、一面、父の慎重さというか、悪く言えば優柔不断のためであったのではなかろうかと思われる。

 父は日記も書かない。手帖もつけない。歌や詩も詠まない。遺書もないということに表現されているように、全く現実主義者であった。

 この父に、センチメンタリズムのかけらが、ほの見えた二つの事実がある。

 一つは、二・二六事件の関係者の処刑に日は、確か日曜日であったが、いつも日曜日には、母のいない私共姉弟をどこかに遊びに連れて行ってくれるのが常の父であったが、朝から、「今日はどこにも連れて行かない。今日は一日外出しない」と、私たちに言った父は、一日ひっそりと黙想していた。

 後で、私は父が二・二六事件関係者の処刑に対し責任者として、密かに弔意を表したのだと分かったのだが、数少ない父の情緒の表現といえよう。

 もう一つは、私が成長してから聞いた話だが、父は歩兵第三連隊長時代に母を亡くした。当時、三連隊では青山墓地でラッパ演習をしていたが、青山の墓地に母を葬ってから、父はこのラッパ演習を禁止したという。

 これも父の数少ないセンチメンタリズムの表現の例といえるのではないだろうか。

 このような現実主義者であった父は、軍人らしい豪放磊落、親分的雰囲気はみじんもなかった。子供の眼から見ても、あらゆる人に自分をさらけ出さない配慮をし、溝を越えない限度ある交際をしていたように思われる。

 従って親分子分の関係になった人もいない。一般世俗受けするような行動もしないので、閉鎖的で冷たいと見られ、スタイリストと感ぜられたことも多かったと思われる。

 こうした性格は、合理主義の外国生活の長かった父に自然に培われ、拡大されて、いわゆるバタくさい、ダンディといわれるスタイリスト、合理的、近代的軍人としての一見冷たい風格を形成したのだと思われる。

 東京裁判での父には、起訴内容が殆どなく、キーナン側の流説によれば、梅津と重光は無罪であり、裁判進行も梅津は簡単にせよと言われていたが、ソ連の主張により無期禁固となったようである。

 こう書いてくると、父の人間像が、いかにも冷徹一途の合理主義者というように見えて来て、いささか気の毒になって来る。

 家庭における父は、温かくユーモラスで、時には茶目っ気さえ見せる良き父であった。特に母を早く失った私共姉弟には、多忙な公務を割いて目をかけてくれた。

 クリスマスの日などは、どこからか沢山のプレゼントを買ってきて、二階の来客用の八畳の間を会場とし、八時に私共を寝かしつけた後、女中に手伝わせて、自らクリスマスツリーの飾りつけをし、それらのプレゼントを雪にみたてた綿の下やツリーの枝の蔭などに隠して準備する。

 そして翌朝、朝食の済むまでは、その部屋は全く立入禁止である。食後、父の「さあ入ってもいいよ」という言葉で二階へ駆け上り、あちこちからプレゼントの包みを見出しては大喜びする私たち姉弟を眺めて、目を細くしていた父の顔が忘れられないのである。

 以上が、梅津美治郎大将の長女、長男の回想である。

 さて、昭和十一年三月二十三日陸軍次官に就任した梅津美治郎中将は、陸軍大臣・寺内寿一大将の下で勤務することになった。
 
 中央部の経験が少ない貴族の御曹司である寺内大将は、元来軍政の衝に就く適任者ではなかったが、多くの先輩の大将連が辞職した余波で大臣に就任したと言われている。