だが、梅津中将は省部の幕僚の一致した推薦により次官に浮かび上がった。梅津中将が、こうした若手幕僚の好評を博した最大の理由は次の二つである。
(一)昭和十年六月の梅津・何応欽(かおうきん)協定を、現地の支那駐屯軍司令官として成功させて北支の治安を回復し、在留日本人の安定を図ることに成功した。
(二)二・二六事件突発の際、仙台の第二師団長としての決心が極めて明確であり、「反乱軍即時討伐すべし」との強硬意見を直ちに中央に電報要請した水際立った態度に中央部幕僚が感動を覚えた。
こうした中央部幕僚の中心をなしていたのが、次の四名だった。
参謀本部作戦部長・石原莞爾(いしわら・かんじ)大佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦課長・歩兵大佐・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・待命・立命館大学講師・予備役・終戦・山形県に転居・東京裁判酒田出張法廷に証人として出廷・昭和二十四年肺水腫と膀胱がんで病死・享年六十歳・勲一等瑞宝章・功三級)。
陸軍省軍務局軍事課高級課員・武藤章(むとう・あきら)中佐(熊本・陸士二五・陸大三二恩賜・軍務局軍事課高級課員・関東軍第二課長・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・中支那方面軍参謀副長・北支那方面軍参謀副長・少将・陸軍省軍務局長・中将・近衛第二師団長・第一四方面軍参謀長・終戦・東京裁判で死刑判決・昭和二十三年刑死・享年五十六歳・功三級・ドイツ鷲勲章功労十字星章等)。
陸軍省軍務局兵務課高級課員・田中新一(たなか・しんいち)中佐(新潟・陸士二五・陸大三五・軍務局兵務課高級課員・歩兵大佐・兵務局兵務課長・軍務局軍事課長・駐蒙軍参謀長・少将・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長・東北軍管区附・終戦・戦後「大戦突入の真相」出版・昭和五十一年死去・享年八十三歳・功三級)。
陸軍省軍務局軍事課満州班長・片倉衷(かたくら・ただし)少佐(宮城・陸士三一・陸大四〇・軍務局軍事課満州班長・軍務局軍務課員・関東軍参謀・歩兵中佐・関東軍第四課長・歩兵第五三連隊長・歩兵大佐・歩兵学校研究主事・関東防衛軍高級参謀・第一五軍高級参謀・ビルマ方面軍作戦課長・少将・第三三軍参謀長・下志津教導飛行師団長・第二〇二師団長・終戦・大平商事会長・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー会長・国際親善隣協会理事長・平成三年死去・享年九十三歳・功四級)。
梅津美治郎中将は、二・二六事件後、内外極めて複雑多端な環境において昭和十一年三月から昭和十三年五月までの二年二か月余の長期に渡り、陸軍次官の要職にあった。
当時は軍の政治上の発言権が強大であったのにかかわらず、「政治を好まず、派閥に中正である」ことを信条とした梅津中将は、幕僚の政治的策動を極力排撃して軍の中正を堅持するに努めた。
そしてこの態度に不満な中堅幕僚や政治浪人、右翼たちから忌避されながらも「梅津の陸軍か」「陸軍の梅津か」と評されるほど偉大なる軍の重鎮的存在となっていった。
梅津次官を失脚させようとする各種の流言蜚語が飛び、その中傷が巷に氾濫したが、真の実力者である梅津中将を失脚せしむることはできなかった。
梅津中将が陸軍次官として、寺内寿一陸軍大臣を補佐して、波乱万丈の時代に、その真価を発揮した主要なる現象は次の通り。
(一)粛軍の実現、二・二六事件の事後処理。
(二)時局による軍内機構の改革、特に陸相現役制の復活。
(三)宇垣内閣流産、林内閣の成立。
(四)支那事変の勃発とその処理対策。
梅津中将が行った最も重要な改革は、陸軍省軍務局を名実ともに陸軍軍政の中枢局としたこと。もう一つは、人事の一元化である。
軍務局では、軍事課が陸軍軍政、装備、予算等の大綱を掌握する。新設された軍務課は、国防政策、外国軍事、帝国議会、国防思想の普及及び思想対策に関する事項を担任する所謂政策幕僚を一課として独立させた。
梅津次官は、政策幕僚の一課を新設することにより、各人が勝手に政策に嘴を容れるのを排除しようと企図したのである。
だが、多年政治支配の座にあり、国会の大多数を制していた政党にとっては、軍部大臣の現役制とともに軍が軍務課の新設により政治面を睥睨(へいげい)するのではないかと、最も警戒の目を注ぐに至った。
この官制の改革は、要するに、とくに陸軍の政治面への発言を統制強化するとともに、軍備の充実に対応せしめ、かつ警備関係を強化して軍の団結を鞏固(きょうこ)にしようと図ったもので、換言すれば、「国政一新」「軍備充実」「粛軍」の三大使命を達成するのに対応する陸軍省の態勢強化であった。
(一)昭和十年六月の梅津・何応欽(かおうきん)協定を、現地の支那駐屯軍司令官として成功させて北支の治安を回復し、在留日本人の安定を図ることに成功した。
(二)二・二六事件突発の際、仙台の第二師団長としての決心が極めて明確であり、「反乱軍即時討伐すべし」との強硬意見を直ちに中央に電報要請した水際立った態度に中央部幕僚が感動を覚えた。
こうした中央部幕僚の中心をなしていたのが、次の四名だった。
参謀本部作戦部長・石原莞爾(いしわら・かんじ)大佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦課長・歩兵大佐・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・待命・立命館大学講師・予備役・終戦・山形県に転居・東京裁判酒田出張法廷に証人として出廷・昭和二十四年肺水腫と膀胱がんで病死・享年六十歳・勲一等瑞宝章・功三級)。
陸軍省軍務局軍事課高級課員・武藤章(むとう・あきら)中佐(熊本・陸士二五・陸大三二恩賜・軍務局軍事課高級課員・関東軍第二課長・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・中支那方面軍参謀副長・北支那方面軍参謀副長・少将・陸軍省軍務局長・中将・近衛第二師団長・第一四方面軍参謀長・終戦・東京裁判で死刑判決・昭和二十三年刑死・享年五十六歳・功三級・ドイツ鷲勲章功労十字星章等)。
陸軍省軍務局兵務課高級課員・田中新一(たなか・しんいち)中佐(新潟・陸士二五・陸大三五・軍務局兵務課高級課員・歩兵大佐・兵務局兵務課長・軍務局軍事課長・駐蒙軍参謀長・少将・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長・東北軍管区附・終戦・戦後「大戦突入の真相」出版・昭和五十一年死去・享年八十三歳・功三級)。
陸軍省軍務局軍事課満州班長・片倉衷(かたくら・ただし)少佐(宮城・陸士三一・陸大四〇・軍務局軍事課満州班長・軍務局軍務課員・関東軍参謀・歩兵中佐・関東軍第四課長・歩兵第五三連隊長・歩兵大佐・歩兵学校研究主事・関東防衛軍高級参謀・第一五軍高級参謀・ビルマ方面軍作戦課長・少将・第三三軍参謀長・下志津教導飛行師団長・第二〇二師団長・終戦・大平商事会長・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー会長・国際親善隣協会理事長・平成三年死去・享年九十三歳・功四級)。
梅津美治郎中将は、二・二六事件後、内外極めて複雑多端な環境において昭和十一年三月から昭和十三年五月までの二年二か月余の長期に渡り、陸軍次官の要職にあった。
当時は軍の政治上の発言権が強大であったのにかかわらず、「政治を好まず、派閥に中正である」ことを信条とした梅津中将は、幕僚の政治的策動を極力排撃して軍の中正を堅持するに努めた。
そしてこの態度に不満な中堅幕僚や政治浪人、右翼たちから忌避されながらも「梅津の陸軍か」「陸軍の梅津か」と評されるほど偉大なる軍の重鎮的存在となっていった。
梅津次官を失脚させようとする各種の流言蜚語が飛び、その中傷が巷に氾濫したが、真の実力者である梅津中将を失脚せしむることはできなかった。
梅津中将が陸軍次官として、寺内寿一陸軍大臣を補佐して、波乱万丈の時代に、その真価を発揮した主要なる現象は次の通り。
(一)粛軍の実現、二・二六事件の事後処理。
(二)時局による軍内機構の改革、特に陸相現役制の復活。
(三)宇垣内閣流産、林内閣の成立。
(四)支那事変の勃発とその処理対策。
梅津中将が行った最も重要な改革は、陸軍省軍務局を名実ともに陸軍軍政の中枢局としたこと。もう一つは、人事の一元化である。
軍務局では、軍事課が陸軍軍政、装備、予算等の大綱を掌握する。新設された軍務課は、国防政策、外国軍事、帝国議会、国防思想の普及及び思想対策に関する事項を担任する所謂政策幕僚を一課として独立させた。
梅津次官は、政策幕僚の一課を新設することにより、各人が勝手に政策に嘴を容れるのを排除しようと企図したのである。
だが、多年政治支配の座にあり、国会の大多数を制していた政党にとっては、軍部大臣の現役制とともに軍が軍務課の新設により政治面を睥睨(へいげい)するのではないかと、最も警戒の目を注ぐに至った。
この官制の改革は、要するに、とくに陸軍の政治面への発言を統制強化するとともに、軍備の充実に対応せしめ、かつ警備関係を強化して軍の団結を鞏固(きょうこ)にしようと図ったもので、換言すれば、「国政一新」「軍備充実」「粛軍」の三大使命を達成するのに対応する陸軍省の態勢強化であった。