東京の軍上層部においてさえ決断しかねて説得工作に時を移しているのに対し、地方各師団長よりの電報もまたいろいろに受け取られるものが逐次到着した。
その内で、白眉の電報は、第二師団長・梅津美治郎中将の意見具申電報だった。
その内容は「大義名分を説いて速やかに討伐然るべし」との堅い信念を現し、「何時でも上京出発準備を整え待機の姿勢にある」といったもので、居合わせた有末少佐ら幕僚は、特に感激を覚えた。
事件鎮定直後、昭和十一年三月九日、寺内寿一(てらうち・ひさいち)大将(山口・陸士一一・陸大二一・ドイツ駐在・歩兵大佐・近衛歩兵第三連隊長・近衛師団参謀長・少将・歩兵第一九連隊長・朝鮮軍参謀長・中将・第五師団長・第四師団長・台湾軍司令官・大将・陸軍大臣・教育総監・北支那方面軍司令官・南方軍総司令官・元帥・終戦・昭和二十一年マレーシアで拘留中に病死・享年六十七歳・伯爵・勲一等旭日大綬章・功一級)が陸軍大臣に就任した。
寺内寿一大将は、寺内正毅(てらうち・まさたけ)元帥(山口・奇兵隊・戊辰戦争・函館戦争・維新後陸軍少尉・陸軍大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将・第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・陸軍大臣・兼教育総監・大将・陸軍大臣兼朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・大正八年死去・享年六十七歳・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・ロシア白鷲勲章等)の長男。
三月二十三日の人事異動で、寺内陸軍大臣は、第二師団長・梅津美治郎中将を陸軍次官に起用した。梅津中将は五十四歳だった。
陸軍次官に就任した、梅津中将は、陸士一五期きっての秀才だったが、軍事課長、参謀本部総務部長以後、中央の要職についていなかった。
梅津中将は、当然、軍の中枢部に進むべき素質を持っていたが、梅津中将自身の本来の地味な性格から、自己主張が少なかったからであろうと言われている。
大正十四年二月、梅津中将がまだ四十三歳で大佐の時、妻・清子が結核で病死、以後梅津は一生独身で通した。
「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)に、梅津中将の長女と長男の回想が載っている。
長女・梅津美代子氏(財団法人枝光会理事・学校法人枝光学園理事長)の回想は次の通り(要旨抜粋)。
父は、母を失った子供の父親として教育を一人でやらなければならなかったので、家庭では教育的なことを話題とした。
無駄をしないということについて、厳しく言われた。例えば、マッチでも一度使ったマッチの棒を取っておけば、次のコンロに火をつける時、新しいマッチをすらないで、消えた軸木で火を移すことができる、と言われた。
そして、西欧における合理的な生活について話した。生来の几帳面な性格か、第一次世界大戦前からの長い滞欧生活で、ますます合理的な生活態度なり考え方を身につけたようだ。
日記はつけなかった。手紙には必ず返事を出した。父が新京に在り、私共は東京にいたが、父はお前たちのことを心配しているのだから音信を必ず寄こすようにと言われ、時に怠ると催促を受けた。
手紙のことでは、日付を書かずに出して、手紙には必ず日付を書くのだと叱られたことを思い出す。
着流しで人に会うことをしなかった。母方の祖父が来ても袴をつけて応接間で会い、居間に通すことはしなかった。「取りつきにくい」と言う人もあった。
ラジオの放送をするというので、何度も練習をし、中学生の私共に聞かせて批判させた。新京でも元旦年頭の挨拶を行うのに何度も練習し、それを聞かされた。
昭和十七年、父の新京時代、私はカトリック教の洗礼を受けたいと思って父に話した。父はキリスト教に反対ではあったが、「信仰は個人の自由である」と言って、私の信仰を許した。
その内で、白眉の電報は、第二師団長・梅津美治郎中将の意見具申電報だった。
その内容は「大義名分を説いて速やかに討伐然るべし」との堅い信念を現し、「何時でも上京出発準備を整え待機の姿勢にある」といったもので、居合わせた有末少佐ら幕僚は、特に感激を覚えた。
事件鎮定直後、昭和十一年三月九日、寺内寿一(てらうち・ひさいち)大将(山口・陸士一一・陸大二一・ドイツ駐在・歩兵大佐・近衛歩兵第三連隊長・近衛師団参謀長・少将・歩兵第一九連隊長・朝鮮軍参謀長・中将・第五師団長・第四師団長・台湾軍司令官・大将・陸軍大臣・教育総監・北支那方面軍司令官・南方軍総司令官・元帥・終戦・昭和二十一年マレーシアで拘留中に病死・享年六十七歳・伯爵・勲一等旭日大綬章・功一級)が陸軍大臣に就任した。
寺内寿一大将は、寺内正毅(てらうち・まさたけ)元帥(山口・奇兵隊・戊辰戦争・函館戦争・維新後陸軍少尉・陸軍大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将・第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・陸軍大臣・兼教育総監・大将・陸軍大臣兼朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・大正八年死去・享年六十七歳・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・ロシア白鷲勲章等)の長男。
三月二十三日の人事異動で、寺内陸軍大臣は、第二師団長・梅津美治郎中将を陸軍次官に起用した。梅津中将は五十四歳だった。
陸軍次官に就任した、梅津中将は、陸士一五期きっての秀才だったが、軍事課長、参謀本部総務部長以後、中央の要職についていなかった。
梅津中将は、当然、軍の中枢部に進むべき素質を持っていたが、梅津中将自身の本来の地味な性格から、自己主張が少なかったからであろうと言われている。
大正十四年二月、梅津中将がまだ四十三歳で大佐の時、妻・清子が結核で病死、以後梅津は一生独身で通した。
「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)に、梅津中将の長女と長男の回想が載っている。
長女・梅津美代子氏(財団法人枝光会理事・学校法人枝光学園理事長)の回想は次の通り(要旨抜粋)。
父は、母を失った子供の父親として教育を一人でやらなければならなかったので、家庭では教育的なことを話題とした。
無駄をしないということについて、厳しく言われた。例えば、マッチでも一度使ったマッチの棒を取っておけば、次のコンロに火をつける時、新しいマッチをすらないで、消えた軸木で火を移すことができる、と言われた。
そして、西欧における合理的な生活について話した。生来の几帳面な性格か、第一次世界大戦前からの長い滞欧生活で、ますます合理的な生活態度なり考え方を身につけたようだ。
日記はつけなかった。手紙には必ず返事を出した。父が新京に在り、私共は東京にいたが、父はお前たちのことを心配しているのだから音信を必ず寄こすようにと言われ、時に怠ると催促を受けた。
手紙のことでは、日付を書かずに出して、手紙には必ず日付を書くのだと叱られたことを思い出す。
着流しで人に会うことをしなかった。母方の祖父が来ても袴をつけて応接間で会い、居間に通すことはしなかった。「取りつきにくい」と言う人もあった。
ラジオの放送をするというので、何度も練習をし、中学生の私共に聞かせて批判させた。新京でも元旦年頭の挨拶を行うのに何度も練習し、それを聞かされた。
昭和十七年、父の新京時代、私はカトリック教の洗礼を受けたいと思って父に話した。父はキリスト教に反対ではあったが、「信仰は個人の自由である」と言って、私の信仰を許した。