この三つの意見が畑陸軍大臣の口から出た以上、陸軍の公式意思表示であり、米内首相も事の意外に驚いた。
だが、裏面の動きが容易に察せられたので「組閣以来今日まで、何等意見の疎隔があったとは思わないし、お互いにこの際は覚悟を新たにして難局に当たるべきではないか」と慰撫し、また反発した。畑陸軍大臣も強いて固執することなく会見は終わった。
ところが、陸軍の局長、課長は会議を開き、畑陸軍大臣が述べた三か条の要望を、報道部を通じて新聞に発表してしまった。
米内首相は「組閣の際、畑に対し陛下から『この内閣に協力するよう』との御言葉があった。畑は『協力いたします』と答えた。あの時のことを思い出してもらわねばならぬ」と畑俊六陸軍大臣と会おうとしたが、失敗した。
「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると七月十六日、畑陸軍大臣は「この内閣のように性格が弱い政権では、陸軍大臣として部下統率ができないから辞めさせてくれ」と言い出し辞表を提出した。
そこで米内首相は陸軍大臣が、「どうしても辞めるというならば、内閣では、いま総辞職の考えはないから、後任を推薦してくれ」と頼んだ。
すると畑陸軍大臣は、「いったん陸軍省に行って相談のあと、陸軍大臣の引き受けてがない」と返事してきた。米内首相もやむを得ず総辞職をするほかなくなった。七月十六日米内内閣は総辞職した。
陸相が辞職を言い出したとき、その顔には苦渋の表情が浮かんでいて、いよいよ総辞職となった最後の閣議のときなど、「畑のショゲかたはなかったよ、かえってこっちが気の毒になってね」と米内は後に回想している。
この顛末は、実は陸軍の中堅将校が結束して意見具申をし、参謀総長・閑院宮が畑陸軍大臣の辞職を薦めたのだった。
七月四日の時点で、参謀次長・沢田茂中将が陸軍大臣室に畑大臣を訪れ、「大本営参謀総長より陸軍大臣への要望、七月四日」と題した文章を提示した。要旨は次の様なものであった。
「帝国としては一日もすみやかな支那事変の解決が緊要である。しかるに現内閣は消極退嬰で、とうてい現下の時局を切り抜けられるとは思わない。かえって国軍の士気団結に悪影響を及ぼす恐れなしとしない」
「このさい挙国強力な内閣を組織し、右顧左眄することなく、断固諸政策を実行させることが肝要である。右に関しこのさい陸軍大臣に善処を切望する」
このときの参謀総長は閑院宮元帥で、ようするに、畑が陸軍大臣を辞任して、「代わりの陸軍大臣を出さず、米内内閣をぶっ倒せ」ということであった。
陸軍大臣は陸軍軍人軍属にたいする一切の人事権を持ち、その点では参謀総長も陸軍大臣の下位にある。陸軍大臣が所信を貫こうと思えば、参謀総長を更迭することもできる。
しかし、参謀総長が皇族では、それは不可能で、畑陸軍大臣が閑院宮参謀総長に従うほかなかったのである。
ところが、当時参謀本部作戦課長・岡田重一大佐は、昭和三十五年二月、驚くべきことを告白している。その内容は次のようなものであった。
「参謀本部においては米内内閣の倒閣を強く希望していたが、畑陸相が倒閣には消極的であると考えていた。畑陸相としては、それは無理なからぬことだった。陸相に留任するとき、天皇に米内内閣に協力する約束をしていたのだから」
「その陸相の立場も考慮し、検討の結果、皇族であり陸軍の最長老である閑院宮参謀総長から強い要望を出すことが、畑陸相を倒閣に踏み切らせる最も容易な手段であると考えた」
「そして閑院宮参謀総長は、陸軍部内大多数の意見が内閣の更迭を必要とするのであれば、畑陸相には気の毒であるが、国家の大事のため、このさい非常手段をとることも止むを得ないと採決した」
閑院宮参謀総長は七十五歳の高齢で、実務的にはロボットであった。それを参謀本部の次長・沢田茂中将、第一部長・富永恭次少将、第一課長・岡田重一大佐、第二部長・土橋勇少将、それに陸軍省の次官・阿南惟幾中将、軍務局長・武藤章少将、軍事課長・岩畔豪雄大佐、軍務課長・河村参郎大佐らが共謀して利用して、米内内閣を崩壊させたのだった。
だが、裏面の動きが容易に察せられたので「組閣以来今日まで、何等意見の疎隔があったとは思わないし、お互いにこの際は覚悟を新たにして難局に当たるべきではないか」と慰撫し、また反発した。畑陸軍大臣も強いて固執することなく会見は終わった。
ところが、陸軍の局長、課長は会議を開き、畑陸軍大臣が述べた三か条の要望を、報道部を通じて新聞に発表してしまった。
米内首相は「組閣の際、畑に対し陛下から『この内閣に協力するよう』との御言葉があった。畑は『協力いたします』と答えた。あの時のことを思い出してもらわねばならぬ」と畑俊六陸軍大臣と会おうとしたが、失敗した。
「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると七月十六日、畑陸軍大臣は「この内閣のように性格が弱い政権では、陸軍大臣として部下統率ができないから辞めさせてくれ」と言い出し辞表を提出した。
そこで米内首相は陸軍大臣が、「どうしても辞めるというならば、内閣では、いま総辞職の考えはないから、後任を推薦してくれ」と頼んだ。
すると畑陸軍大臣は、「いったん陸軍省に行って相談のあと、陸軍大臣の引き受けてがない」と返事してきた。米内首相もやむを得ず総辞職をするほかなくなった。七月十六日米内内閣は総辞職した。
陸相が辞職を言い出したとき、その顔には苦渋の表情が浮かんでいて、いよいよ総辞職となった最後の閣議のときなど、「畑のショゲかたはなかったよ、かえってこっちが気の毒になってね」と米内は後に回想している。
この顛末は、実は陸軍の中堅将校が結束して意見具申をし、参謀総長・閑院宮が畑陸軍大臣の辞職を薦めたのだった。
七月四日の時点で、参謀次長・沢田茂中将が陸軍大臣室に畑大臣を訪れ、「大本営参謀総長より陸軍大臣への要望、七月四日」と題した文章を提示した。要旨は次の様なものであった。
「帝国としては一日もすみやかな支那事変の解決が緊要である。しかるに現内閣は消極退嬰で、とうてい現下の時局を切り抜けられるとは思わない。かえって国軍の士気団結に悪影響を及ぼす恐れなしとしない」
「このさい挙国強力な内閣を組織し、右顧左眄することなく、断固諸政策を実行させることが肝要である。右に関しこのさい陸軍大臣に善処を切望する」
このときの参謀総長は閑院宮元帥で、ようするに、畑が陸軍大臣を辞任して、「代わりの陸軍大臣を出さず、米内内閣をぶっ倒せ」ということであった。
陸軍大臣は陸軍軍人軍属にたいする一切の人事権を持ち、その点では参謀総長も陸軍大臣の下位にある。陸軍大臣が所信を貫こうと思えば、参謀総長を更迭することもできる。
しかし、参謀総長が皇族では、それは不可能で、畑陸軍大臣が閑院宮参謀総長に従うほかなかったのである。
ところが、当時参謀本部作戦課長・岡田重一大佐は、昭和三十五年二月、驚くべきことを告白している。その内容は次のようなものであった。
「参謀本部においては米内内閣の倒閣を強く希望していたが、畑陸相が倒閣には消極的であると考えていた。畑陸相としては、それは無理なからぬことだった。陸相に留任するとき、天皇に米内内閣に協力する約束をしていたのだから」
「その陸相の立場も考慮し、検討の結果、皇族であり陸軍の最長老である閑院宮参謀総長から強い要望を出すことが、畑陸相を倒閣に踏み切らせる最も容易な手段であると考えた」
「そして閑院宮参謀総長は、陸軍部内大多数の意見が内閣の更迭を必要とするのであれば、畑陸相には気の毒であるが、国家の大事のため、このさい非常手段をとることも止むを得ないと採決した」
閑院宮参謀総長は七十五歳の高齢で、実務的にはロボットであった。それを参謀本部の次長・沢田茂中将、第一部長・富永恭次少将、第一課長・岡田重一大佐、第二部長・土橋勇少将、それに陸軍省の次官・阿南惟幾中将、軍務局長・武藤章少将、軍事課長・岩畔豪雄大佐、軍務課長・河村参郎大佐らが共謀して利用して、米内内閣を崩壊させたのだった。