陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

661.梅津美治郎陸軍大将(1)敵国の検事団と火花を散らして大論戦をしただろうか

2018年11月23日 | 梅津美治郎陸軍大将
 「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)には、梅津美治郎について、編者の上方快男氏が、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 梅津美治郎は、あの昭和軍閥が「コワモテ」で国民に号令した時に、怒り肩で参謀飾緒を光らせながら、演説をぶったことがあったろうか。

 陸軍次官として新聞記者連をうならせるような記者会見を行っただろうか。彼は軍司令官として歴史に残る勝利の大声明を発表しただろうか。

 彼は戦後東京裁判には列したが、敵国の検事団と火花を散らして大論戦をしただろうか。彼は戦後、敗戦が日本として已むを得なかったという大手記を発表しただろうか。

 彼はかつて日記すらつけていなかった。手記も記録も一切なかった。彼は自分の住む家すらかつて建てたことはなかった。大将になるまでいつでも借家ですませた。

 昭和二十四年一月八日江東の一病院で横死したが、彼の遺骸はかつての参謀総長官舎の爆撃で焼失した焼け残りの土蔵の一室に帰ったのであった。彼が官舎以外の私宅をもっていなかったからである。

<梅津美治郎(うめづ・よしじろう)陸軍大将プロフィル>

明治十五年一月四日生まれ。大分県中津市出身。父・梅津芳米、母・ツネの次男。
明治二十二年(七歳)父・芳米が死去。後に母・ツネは、長男・芳蔵と美治郎を連れて、大分県豊後高田町の是永家に再婚。ここで数人の子を儲けている。美治郎はこの是永家で成長した。
明治三十年(十五歳)九月中学濟々黌(熊本県熊本市)から、熊本陸軍地方幼年学校入校。
明治三十五年(二十歳)五月陸軍中央幼年学校卒業。
明治三十六年(二十一歳)十一月陸軍士官学校(一五期・七番)卒業。
明治三十七年(二十二歳)三月十八日歩兵少尉、歩兵第一連隊附。
明治三十八年(二十三歳)六月三十日歩兵中尉(是永美治郎名義)。
明治三十九年(二十四歳)二月十三日歩兵第一旅団副官。四月一日功五級金鵄勲章、勲六等単光旭日章。
明治四十一年(二十六歳)十二月十一日陸軍大学校入校。
明治四十四年(二十九歳)十一月陸軍大学校(二三期・首席)卒業(梅津美治郎名義・是永美治郎は梅津家に復籍)。
明治四十五年(三十歳)三月二十五日歩兵大尉、歩兵第一連隊中隊長。六月一日参謀本部部員。
大正二年(三十一歳)四月二十二日ドイツ駐在(軍事研究)。
大正三年(三十二歳)八月二十三日参謀本部附。十一月二十八日俘虜情報局御用掛。
大正四年(三十三歳)三月一日丁抹国(デンマーク)駐在(軍事研究)。
大正六年(三十五歳)五月八日帰国を命ぜらる。参謀本部部員。
大正七年(三十六歳)六月一日歩兵少佐。七月二十四日奥安鞏(おく・やすかた)元帥副官。
大正八年(三十七歳)二月五日ヨーロッパ出張。四月帰国。四月二十二日木場清子と結婚。九月二日参謀本部附。十一月一日瑞西国(スイス)公使館附武官。十二月長女・美代子出生。
大正十年(三十九歳)六月十三日参謀本部部員。
大正十一年(四十歳)二月八日歩兵中佐。
大正十二年(四十一歳)三月七日陸軍省兵器局課員兼軍務局課員兼陸軍大学校兵学教官。七月長男・美一出生。
大正十三年(四十二歳)十二月十五日歩兵大佐、歩兵第三連隊長。
大正十四年(四十三歳)十二月十七日妻・清子が結核で病死。以後梅津は一生独身。
大正十五年(四十四歳)十二月一日参謀本部課長兼陸軍大学校兵学教官。
昭和三年(四十六歳)八月十日陸軍省軍務局軍事課長兼陸軍大学校兵学教官。八月十四日大礼使事務官。
昭和五年(四十八歳)八月一日少将、歩兵第一旅団長。
昭和六年(四十九歳)八月一日参謀本部総務部長。
昭和八年(五十一歳)八月一日参謀本部附。十一月一日駐スイス公使館附武官。
昭和九年(五十二歳)三月五日志支那駐屯軍司令官。八月一日中将。
昭和十年(五十三歳)八月一日第二師団長(仙台)。
昭和十一年(五十四歳)三月二十三日陸軍次官。
昭和十三年(五十六歳)五月三十日第一軍司令官。
昭和十四年(五十七歳)九月七日関東軍司令官兼特命全権大使満州国駐箚。
昭和十五年(五十八歳)八月一日大将。
昭和十七年(六十歳)十月一日関東軍総司令官。
昭和十九年(六十二歳)七月十八日参謀総長。
昭和二十年(六十三歳)八月十五日終戦。九月二日大本営全権として、アメリカ太平洋艦隊旗艦「ミズーリ―号」上で降伏文書調印。十月十五日参謀本部解消、軍事参議官。十一月三十日予備役。
昭和二十一年(六十四歳)四月二十九日A級戦犯指定。巣鴨刑務所収監。
昭和二十三年(六十六歳)二月直腸癌が発見され三一六病院に入院・手術。十一月十二日終身禁固。
昭和二十四年一月八日入院中に直腸癌により病死。享年六十七歳。生涯日記も手記も残さなかった。煙草好きで特に葉巻を愛用した。