陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

212.山本五十六海軍大将(12) 豊田貞次郎という男はこういう男だ。覚えとけ

2010年04月16日 | 山本五十六海軍大将
 昭和十五年一月十六日、米内光政内閣が成立した。二六新報社長・松本賛吉は、米内首相が大いに奮闘しているが内閣の前途は多難らしいという報告と共に、山本五十六の政界出馬を期待するような手紙を軍艦長門の山本五十六連合艦隊司令長官に書き送った。

 当時実際に、政界の一部には「山本五十六内閣待望論」があったと言われている。山本五十六は松本の手紙に対して、二月十八日付で次の様な返事をしたためた。

 「貴翰難有拝見仕侯 海上勤務半歳 海軍は矢張り海上第一まだまだやるべき仕事海上に山の如し、所詮海軍軍人などは海上の技術者たるべく柄になき政事などは真平と存じ居り候」

 だが、米内内閣は成立後半年の、昭和十五年七月二十二日、総辞職し、第二次近衛内閣ができると、待っていたかのように、再び、日独伊三国同盟問題が表面にでてきて、二ヵ月後の九月二十日、この三国軍事同盟はあっさりと成立してしまった。

 当時、海軍大臣は吉田善吾中将(海兵三二・海大一三)で、第二次近衛内閣にも留任したが、陸軍および部内外の革新派からの突き上げと、海兵同期の山本五十六あたりからの厳しい註文との板ばさみになって、ノイローゼになり、入院し、三国同盟締結の三週間前に海軍大臣を辞職していた。 

 「太平洋海戦記」(杉山績・図書出版社)によると、著者の杉山績氏は海軍経理学校出身の元主計大尉だが、戦後昭和二十一年二月十一日、杉山氏の義父、横尾石夫元主計中将が普段から懇意にしていた米内光政を千葉県の元木更津海軍工廠の廠長官の官舎に招待した。

 そのとき、杉山元主計大尉も出席しており、横尾元主計中将とともに、米内光政を待っていた。やがて、夕刻、米内光政は玄関に入ってきた。

 そのとき、挨拶する横尾元主計中将に向って、「いや、横尾君、とうとう陸軍が国をほろぼしてしまったな」という言葉が米内光政の口から飛び出した。杉山元主計大尉は驚いた。

 現役時代、批判や苦情を絶対に口にしなかったと言われていた米内光政にしては、全く意外な挨拶代わりの言葉だった。その夜、米内光政は米内内閣を崩壊に導いた陸軍の策謀の経緯を淡々と語ったという。

 吉田善吾のあと九月五日に及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)が海軍大臣に就任した。次官は豊田貞次郎中将(海兵三三首席・海大一七首席)がなった。

 就任直後、及川海軍大臣は海軍首脳会議を招集した。海軍として三国同盟に対する最終的態度を決定するものだった。会議には山本五十六連合艦隊司令長官も出席した。

 会議の席上、及川海軍大臣は、ここでもし海軍が反対すれば、第二次近衛内閣は総辞職のほかなく、海軍として内閣崩壊の責任を取ることは到底できないから、同盟条約締結に賛成願いたいということを述べた。

 列席の伏見宮軍令部総長以下、軍事参議官、艦隊長官、鎮守府長官らの中から、一人も発言する者がなかった。すると、山本五十六連合艦隊司令長官が立ち上がって次の様に発言した。

 「私は大臣に対しては、絶対に服従するものであります。大臣の処置に対して異論をはさむ考えは毛頭ありません。ただし、ただ一点、心配に堪えぬところがありますので、それをお訊ねしたい」

 「私が次官を勤めて追った当時の企画院の物動計画によれば、その八割は、英米勢力の圏内の資材でまかなわれることになっておりました」

 「今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失う筈であるが、その不足を補うために、どういう物動計画の切り替えをやられたか、この点を明確に聞かせて頂き、連合艦隊の長官として安心して任務の遂行を致したいと存ずる次第であります」

 及川大臣は、山本司令長官のこの問題には一言も答えず「いろいろ御意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成願いたい」と同じことを繰り返した。

 すると、先任の軍事参議官である大角岑生大将(海兵二四恩賜・海大五)が、まず「私は賛成します」と口火を切り、それで、ばたばたと、一同賛成ということになってしまった。

 会議の後、及川大臣は山本司令長官からとっちめられ、「事情止むを得ないものがあるので勘弁してくれ」とあやまったが、山本司令長官が「勘弁ですむか」と言い、かなり緊張した場面になった。だが、こうして三国同盟は締結された。

 山本司令長官は次官の豊田貞次郎中将にも失望していた。昭和十三年、山本が海軍次官当時、豊田中将は佐世保鎮守府長官だった。

 ある日、山本次官は「オイ、こういう手紙が来ているから、参考のために見とけよ」と、豊田中将からの手紙を、井上成美軍務局長(海兵三七恩賜・海大二二)に見せた。

 その手紙には「私が親補職の地位にあるために次官になることをいやがるなどとは、どうかお思いにならないでいただきたい」という意味のことが書いてあった。鎮守府長官は親補職であるが、次官は親補職ではない。

 井上軍務局長が読み終わると、山本次官は「豊田貞次郎という男はこういう男だ。覚えとけ」と言った。だが、その豊田は及川大臣の下で次官になり、第三次近衛内閣の時には外務大臣に就任した。