山本五十六連合艦隊司令長官は、三国同盟については、荻窪荻外荘の近衛邸で、近衛文麿首相から次の様な話を受けた。
「海軍があまりあっさり賛成したので、不思議に思っていたが、あとで次官に話を聞くと、『物動方面なかなか容易ならず、海軍戦備にも幾多欠陥あり、同盟には政治的に賛成したものの、国防的には憂慮すべき状態』ということで、実は少なからず失望した次第である」
「海軍は海軍の立場を良く考えて意見を立ててもらわねば困る、国内政治問題の如きは、首相の自分が、別に考慮して如何様にも善処すべき次第であった」
この近衛首相の発言について、山本司令長官は嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)に次の様な手紙を出した。
「随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて不平を言はれたり、是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず、要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、真に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致侯、御参考迄」
だが、山本五十六は近衛も嫌いだったが、実は嶋田繁太郎も嫌いだった。「あんな奴を、巧言令色と言うんだ」と言って、信用していなかった。
嶋田が後に、東條首相の内閣に入閣し、東條の副官といわれるような海軍大臣になることを見通していたような、山本五十六だった。
昭和和十六年七月、日本軍の南部仏印進駐が決定し、海軍大臣・及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)が、連合艦隊司令長官・山本五十六大将(海兵三二・海大一四)と第二艦隊長官・古賀峯一中将(海兵三四・海大一五)を東京の海軍大臣官邸に呼んで、事情の説明披露が行われた。
「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、当日は、軍令部総長・永野修身大将(海兵二八恩賜・海大八)、航空本部長・井上成美中将(海兵三七恩賜・海大二二)らも出席した。
二・二六事件以後、日本が戦争に向って歩みを進めた過程の中で、戦争への傾斜が急に深まった場面がいくつかあるが、南部仏印進駐はその大きなステップの一つだった。
事情説明披露の席で、山本大将は最初に、井上中将に向って「井上君、航空軍備はどうなんだ?」と聞いた。
すると井上中将は「あなたが次官の時から、一つも進んでおりません。そこへこの度の進駐で、大量の熟練工が召集され、お話にならない状態です」と答えた。
井上中将は日米不戦論者としては山本大将以上に強硬だった。
井上中将の発言の後、古賀中将が「大体こんな重大なことを、艦隊長官に相談もせずに勝手に決めて、戦争になったからさあやれと言われても、やれるものではありませんよ」と及川大臣に食ってかかった。
古賀中将はまた、永野軍令部総長に向って、「政府のこの取り決めに対し、軍令部当局はどう考えておられますか?」と質問した。
永野総長は「まあ、政府がそう決めたんだから、それでいいじゃないか」と曖昧な返事しかしなかった。
大臣官邸での食事も済んで解散になったあと、航空本部長の部屋に来た山本大将はプンプン怒って「永野さん、駄目だ」と言った。
さらに、「もう、しょうない。何か、オイ、甘いものないか」と、井上中将にチョコレートを出させ、一口かじって、「何だ。これ、あんまり上等じゃないな」と、おそろしく機嫌が悪かった。
昭和十六年八月十日、山本五十六大将と海兵同期で前海軍大臣の吉田善吾大将(海兵三二・海大一三)が佐伯湾在泊中の戦艦長門(連合艦隊旗艦)に、主力艦の艦砲射撃を見学するということで連合艦隊司令長官・山本五十六大将を訪ねてきた。
吉田大将の手記によると、このとき、山本大将は「どうしても戦わなければならぬ場合、真珠湾奇襲攻撃を語りたり」となっている。
吉田大将は帰京して、当時の海軍大臣・及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)に会ったとき、山本大将の連合艦隊司令長官の交替について熱心に話し合っている。
そのとき、吉田大将は「山本はGF(連合艦隊)長官を辞め、横鎮(横須賀鎮守府)にでもいく(司令長官として)ような口ぶりだった。自分が『それでは、だれが後任になるのだ』とただしたら、山本は『嶋田(繁太郎)であり、すでに本人も承知しているはずだ』と言った」と及川大臣に話した。
すると及川大臣は「そんなことはない。いま山本に辞められては困る」と答えた。そのことを、吉田大将が山本大将に伝えると、山本大将は、やや捨て鉢に気味になったと言われている。
そのころ、井上成美中将(海兵三七恩賜・海大二二)は、八月十一日付けで第四艦隊司令長官に親補され、南洋のトラック島に赴任することになった。
及川海軍大臣、永野修身軍令部総長(海兵二八恩賜・海大八)のコンビは、陸軍に妥協しつつ対米戦に踏み込んでいっていた。その状況では山本大将や井上中将は、目の上のたんこぶであり、中央から遠ざけたのである。
もともと連合艦隊司令長官としては、山本大将よりも嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)の方が適任だった。嶋田大将は作戦畑出身で、山本大将が軍政にかけての第一級のプロなら、嶋田大将は作戦にかけての第一級のプロだった。
及川海軍大臣がこの時点で、山本大将を中央に戻し、嶋田大将を連合艦隊司令長官にしていたら、対米戦争の様相は変わっていただろう。
しかも開戦時の連合艦隊参謀長・宇垣纏海軍少将(海兵四〇・海大二二)も作戦のプロではなかった。一説には、当時連合艦隊司令部には山本大将を含め、プロの作戦家は一人もいなかったと言われている。
「海軍があまりあっさり賛成したので、不思議に思っていたが、あとで次官に話を聞くと、『物動方面なかなか容易ならず、海軍戦備にも幾多欠陥あり、同盟には政治的に賛成したものの、国防的には憂慮すべき状態』ということで、実は少なからず失望した次第である」
「海軍は海軍の立場を良く考えて意見を立ててもらわねば困る、国内政治問題の如きは、首相の自分が、別に考慮して如何様にも善処すべき次第であった」
この近衛首相の発言について、山本司令長官は嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)に次の様な手紙を出した。
「随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて不平を言はれたり、是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず、要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、真に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致侯、御参考迄」
だが、山本五十六は近衛も嫌いだったが、実は嶋田繁太郎も嫌いだった。「あんな奴を、巧言令色と言うんだ」と言って、信用していなかった。
嶋田が後に、東條首相の内閣に入閣し、東條の副官といわれるような海軍大臣になることを見通していたような、山本五十六だった。
昭和和十六年七月、日本軍の南部仏印進駐が決定し、海軍大臣・及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)が、連合艦隊司令長官・山本五十六大将(海兵三二・海大一四)と第二艦隊長官・古賀峯一中将(海兵三四・海大一五)を東京の海軍大臣官邸に呼んで、事情の説明披露が行われた。
「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、当日は、軍令部総長・永野修身大将(海兵二八恩賜・海大八)、航空本部長・井上成美中将(海兵三七恩賜・海大二二)らも出席した。
二・二六事件以後、日本が戦争に向って歩みを進めた過程の中で、戦争への傾斜が急に深まった場面がいくつかあるが、南部仏印進駐はその大きなステップの一つだった。
事情説明披露の席で、山本大将は最初に、井上中将に向って「井上君、航空軍備はどうなんだ?」と聞いた。
すると井上中将は「あなたが次官の時から、一つも進んでおりません。そこへこの度の進駐で、大量の熟練工が召集され、お話にならない状態です」と答えた。
井上中将は日米不戦論者としては山本大将以上に強硬だった。
井上中将の発言の後、古賀中将が「大体こんな重大なことを、艦隊長官に相談もせずに勝手に決めて、戦争になったからさあやれと言われても、やれるものではありませんよ」と及川大臣に食ってかかった。
古賀中将はまた、永野軍令部総長に向って、「政府のこの取り決めに対し、軍令部当局はどう考えておられますか?」と質問した。
永野総長は「まあ、政府がそう決めたんだから、それでいいじゃないか」と曖昧な返事しかしなかった。
大臣官邸での食事も済んで解散になったあと、航空本部長の部屋に来た山本大将はプンプン怒って「永野さん、駄目だ」と言った。
さらに、「もう、しょうない。何か、オイ、甘いものないか」と、井上中将にチョコレートを出させ、一口かじって、「何だ。これ、あんまり上等じゃないな」と、おそろしく機嫌が悪かった。
昭和十六年八月十日、山本五十六大将と海兵同期で前海軍大臣の吉田善吾大将(海兵三二・海大一三)が佐伯湾在泊中の戦艦長門(連合艦隊旗艦)に、主力艦の艦砲射撃を見学するということで連合艦隊司令長官・山本五十六大将を訪ねてきた。
吉田大将の手記によると、このとき、山本大将は「どうしても戦わなければならぬ場合、真珠湾奇襲攻撃を語りたり」となっている。
吉田大将は帰京して、当時の海軍大臣・及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)に会ったとき、山本大将の連合艦隊司令長官の交替について熱心に話し合っている。
そのとき、吉田大将は「山本はGF(連合艦隊)長官を辞め、横鎮(横須賀鎮守府)にでもいく(司令長官として)ような口ぶりだった。自分が『それでは、だれが後任になるのだ』とただしたら、山本は『嶋田(繁太郎)であり、すでに本人も承知しているはずだ』と言った」と及川大臣に話した。
すると及川大臣は「そんなことはない。いま山本に辞められては困る」と答えた。そのことを、吉田大将が山本大将に伝えると、山本大将は、やや捨て鉢に気味になったと言われている。
そのころ、井上成美中将(海兵三七恩賜・海大二二)は、八月十一日付けで第四艦隊司令長官に親補され、南洋のトラック島に赴任することになった。
及川海軍大臣、永野修身軍令部総長(海兵二八恩賜・海大八)のコンビは、陸軍に妥協しつつ対米戦に踏み込んでいっていた。その状況では山本大将や井上中将は、目の上のたんこぶであり、中央から遠ざけたのである。
もともと連合艦隊司令長官としては、山本大将よりも嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)の方が適任だった。嶋田大将は作戦畑出身で、山本大将が軍政にかけての第一級のプロなら、嶋田大将は作戦にかけての第一級のプロだった。
及川海軍大臣がこの時点で、山本大将を中央に戻し、嶋田大将を連合艦隊司令長官にしていたら、対米戦争の様相は変わっていただろう。
しかも開戦時の連合艦隊参謀長・宇垣纏海軍少将(海兵四〇・海大二二)も作戦のプロではなかった。一説には、当時連合艦隊司令部には山本大将を含め、プロの作戦家は一人もいなかったと言われている。