かつてのロンドン軍縮予備交渉で、山本の人物を見込んだクレーギーが大使として来日すると真っ先に山本次官を訪問した。
これを右翼に言わせると「山本が不逞の親英派である確かな証拠」ということになった。山本次官の郷里の長岡にまで不穏文書がばらまかれた。
その文書は「山本五十六。米英と親交を結び或いは会食に或いは映画見物に米英大使館に出入りして歓を尽くす」というものだった。このようなことから、「山本五十六は米英派なり」という話が一層広がっていった。
映画見物については、五月十七日、英国大使館の晩餐会でのことで、山本次官はクレーギー英国大使と旧知の間柄なので、そういう会にはよく出席した。映画の会には高松宮も出席していた。
右翼がこの映画の会に山本が出席したのが怪しからんと次官室でねばった時、秘書官の実松譲(海兵五一・海大三四)が、映画の会には高松宮も出席しておられたことを、匂わした。
すると「畏れ多くも、金枝玉葉の御身のことまで持ち出して、自らの非を覆い隠す気か」と、怒鳴りつけられたという。
彼らはやって来ては、秘書官を起立させ、奉書の紙を拡げて、「ヨッテ天ニ代ワリテ山本五十六ヲ誅スルモノナリ」というような弾劾状とか脅迫状とかを読み上げ、一言言い返せば、千言万語浴びせかけられるから、秘書官たちは何と言われようと一切暖簾に腕押し「承っておきます」と玄関番に徹したという。
それでも「弱虫。海軍の弱虫。貴様達の日本精神は、何処にあるか」などと、口汚く罵られ、容易なことでは引き上げてもらえなかった。やっと追い返して、自分の机に戻って見ると、処置に困るほど、書類の山ができていた。
ところが、ヒトラーは日本の優柔不断な態度を見て、日本をあきらめてイタリアとだけ同盟条約を結び、昭和十四年八月二十三日、ソ連とも不可侵条約を結んで、九月一日、ポーランドに攻め込んだ。
ヒトラーの野望に反して、イギリスとフランスは、ポーランドを保障した信義を重んじて、九月三日対独宣戦した。こうして第二次世界大戦が始まった。
これにより、平沼内閣は八月三十日、総辞職に追い込まれ、米内大臣は軍事参議官に、山本次官は連合艦隊司令長官に転出した。
昭和十四年八月三十日の朝、反町栄一が、所用があって羽越本線新発田駅から上りの急行に乗った。この日は山本五十六中将が海軍次官から連合艦隊司令長官に発令された日だった。
反町栄一は、山本五十六と同じ長岡中学の後輩で、山本より五つ年下だが、郷里長岡での山本の古い友人である。
反町栄一が急行に乗り込むと、二等車に陸軍中将の軍服を着た石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)が座っていた。
反町が「やあ、これは石原閣下、どちらへ?」と聞くと、石原中将は「十六師団長に補せられ、東京に行くが、陛下に拝謁したら、この戦争(日華事変)をこれ以上続けてはならない意見を申し上げるつもりだ。秩父宮殿下や高松宮殿下にも申し上げる」と答えた。
また、石原中将は「自分のまわりに乗っているのは、みんな私服の憲兵と特高だがね、このまま日支事変を続けていたら日本は亡んでしまうよ」と言った。
石原中将は、それから「実は山本次官にも会いたいと思っている。海軍で戦争をやめさせることの出来る人は、山本さんしかいない。九月三日に訪ねて行きたいが、あなたから連絡をとっておいてくれないか」と反町に頼んだ。
石原中将と山本中将は面識があった。以前陸海軍首脳の懇親会で、二人はたまたま隣の席に座った。そのとき、石原中将が並みいる陸軍のお偉方の方をあごでしゃくって、「陸軍もああいう連中がやっているんじゃ駄目なんだ」と山本中将に言った。
すると、山本中将は「そういう事を言う奴がいるから、陸軍は駄目なんだ」と言い返した。さすがの石原中将も閉口して黙り込んでしまった。
だが、日華事変は早く解決して米英との早急な対決は避けるべきだという認識は山本中将と石原中将は共鳴していた。
反町は、山本中将に連絡をとることを約束して石原中将と別れた。そのあと、山本中将が連合艦隊司令長官に親補されたというニュースがラジオで流れた。
反町は山本中将に会って、お祝いを言った後、石原中将の依頼を話した。すると山本中将は「そりゃ残念だな。僕は明日発って艦隊に行かねばならないので、お会いできんがなあ。君から今度、石原さんによろしく言ってくれよ」と言った。
山本中将はそのまま海に出て、その後死ぬまで石原中将と会うことはなかった。もし二人の会談が実現していたら、日華事変の前途と日本の将来が変わっていたかもしれない、と言われている。
これを右翼に言わせると「山本が不逞の親英派である確かな証拠」ということになった。山本次官の郷里の長岡にまで不穏文書がばらまかれた。
その文書は「山本五十六。米英と親交を結び或いは会食に或いは映画見物に米英大使館に出入りして歓を尽くす」というものだった。このようなことから、「山本五十六は米英派なり」という話が一層広がっていった。
映画見物については、五月十七日、英国大使館の晩餐会でのことで、山本次官はクレーギー英国大使と旧知の間柄なので、そういう会にはよく出席した。映画の会には高松宮も出席していた。
右翼がこの映画の会に山本が出席したのが怪しからんと次官室でねばった時、秘書官の実松譲(海兵五一・海大三四)が、映画の会には高松宮も出席しておられたことを、匂わした。
すると「畏れ多くも、金枝玉葉の御身のことまで持ち出して、自らの非を覆い隠す気か」と、怒鳴りつけられたという。
彼らはやって来ては、秘書官を起立させ、奉書の紙を拡げて、「ヨッテ天ニ代ワリテ山本五十六ヲ誅スルモノナリ」というような弾劾状とか脅迫状とかを読み上げ、一言言い返せば、千言万語浴びせかけられるから、秘書官たちは何と言われようと一切暖簾に腕押し「承っておきます」と玄関番に徹したという。
それでも「弱虫。海軍の弱虫。貴様達の日本精神は、何処にあるか」などと、口汚く罵られ、容易なことでは引き上げてもらえなかった。やっと追い返して、自分の机に戻って見ると、処置に困るほど、書類の山ができていた。
ところが、ヒトラーは日本の優柔不断な態度を見て、日本をあきらめてイタリアとだけ同盟条約を結び、昭和十四年八月二十三日、ソ連とも不可侵条約を結んで、九月一日、ポーランドに攻め込んだ。
ヒトラーの野望に反して、イギリスとフランスは、ポーランドを保障した信義を重んじて、九月三日対独宣戦した。こうして第二次世界大戦が始まった。
これにより、平沼内閣は八月三十日、総辞職に追い込まれ、米内大臣は軍事参議官に、山本次官は連合艦隊司令長官に転出した。
昭和十四年八月三十日の朝、反町栄一が、所用があって羽越本線新発田駅から上りの急行に乗った。この日は山本五十六中将が海軍次官から連合艦隊司令長官に発令された日だった。
反町栄一は、山本五十六と同じ長岡中学の後輩で、山本より五つ年下だが、郷里長岡での山本の古い友人である。
反町栄一が急行に乗り込むと、二等車に陸軍中将の軍服を着た石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)が座っていた。
反町が「やあ、これは石原閣下、どちらへ?」と聞くと、石原中将は「十六師団長に補せられ、東京に行くが、陛下に拝謁したら、この戦争(日華事変)をこれ以上続けてはならない意見を申し上げるつもりだ。秩父宮殿下や高松宮殿下にも申し上げる」と答えた。
また、石原中将は「自分のまわりに乗っているのは、みんな私服の憲兵と特高だがね、このまま日支事変を続けていたら日本は亡んでしまうよ」と言った。
石原中将は、それから「実は山本次官にも会いたいと思っている。海軍で戦争をやめさせることの出来る人は、山本さんしかいない。九月三日に訪ねて行きたいが、あなたから連絡をとっておいてくれないか」と反町に頼んだ。
石原中将と山本中将は面識があった。以前陸海軍首脳の懇親会で、二人はたまたま隣の席に座った。そのとき、石原中将が並みいる陸軍のお偉方の方をあごでしゃくって、「陸軍もああいう連中がやっているんじゃ駄目なんだ」と山本中将に言った。
すると、山本中将は「そういう事を言う奴がいるから、陸軍は駄目なんだ」と言い返した。さすがの石原中将も閉口して黙り込んでしまった。
だが、日華事変は早く解決して米英との早急な対決は避けるべきだという認識は山本中将と石原中将は共鳴していた。
反町は、山本中将に連絡をとることを約束して石原中将と別れた。そのあと、山本中将が連合艦隊司令長官に親補されたというニュースがラジオで流れた。
反町は山本中将に会って、お祝いを言った後、石原中将の依頼を話した。すると山本中将は「そりゃ残念だな。僕は明日発って艦隊に行かねばならないので、お会いできんがなあ。君から今度、石原さんによろしく言ってくれよ」と言った。
山本中将はそのまま海に出て、その後死ぬまで石原中将と会うことはなかった。もし二人の会談が実現していたら、日華事変の前途と日本の将来が変わっていたかもしれない、と言われている。