陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

210.山本五十六海軍大将(10)緒方竹虎は「毛ほども芝居気もない山本」と言っていた

2010年04月02日 | 山本五十六海軍大将
 山本五十六は、公的には常にポーカーフェイスで、日常感情を余り顔に出さない軍人だったが、実は感情の非常に激しい面を持ち合わせていた。

 その例は、南郷茂章大尉(海兵五五)が戦死し、その弔問に彼の実家を訪れた時、山本中将が号泣したと言われている。

 南郷茂章大尉はパイロットで、駐英武官も勤めた優秀な人材で、かつて山本五十六の部下でもあった。「海鷲三羽烏」と言われた名パイロットで、名指揮官でもあった。

 その南郷大尉は、昭和十三年七月十八日、中華民国江西省南昌上空で戦死した。そのとき、東京の玉川上野毛の自宅で、山本五十六中将の弔問を受けた父親の南郷次郎海軍少将(海兵二六・海大八)、が後に、そのことを書いた文章がある。

 南郷次郎少将は、当時予備役の海軍少将で、山本五十六中将とはあまり肌の合わない艦隊派だった。だが、息子の南郷茂章大尉は山本中将が大変可愛がった部下だった。南郷次郎少将の文章は次の通り。

 「折にふれ時につれてしみじみ思い起こす、それは今から一年前の夏の事、自分の長男茂章が南昌で戦死した時のことである」

 「長男は嘗て山本五十六中将に率いられた航空戦隊に勤務し、日夜山本中将の偉容に接して中将に私淑し、上官として真に心から敬服して居った(中略)」

 「間もなく長男は戦死した。山本次官は早速弔問された。自分は山本中将に対し、長男生前の懇切なる指導の恩を謝し、軍人としてその職責を完遂せるを心より満足する旨を述べた。これは、自分の衷心より出たる言葉であった」

 「ジッと伏目勝ちに聞いて居られた山本次官は、只一語も発せず、化石したかの如く微動もされなかったが、忽然体を崩し小児そのままの姿勢で弔問の群衆のさ中であるに拘らず、大声で慟哭し、遂に床上に倒れられた」

 「自分は呆然ナス術を知らず、驚き怪しみ深く心打たれつつ見守って居た。やや暫くして山本中将は起き上がられたが、再び激しく慟哭して倒れられた。傍に在る人々に助け起こされ、ようやく神気鎮まるを待って辞去されたのであった。(攻略)」

 五十も半ばの、地位も高い軍人が、戦死した部下の悔みに行って、二度もひっくり返って子供のように泣きじゃくるとは、よほど山本は情に激する人間だった。緒方竹虎は「毛ほども芝居気もない山本」と言っていた。

 昭和十四年頃、中野正剛がドイツ、イタリアに行くと山本次官のところに挨拶に来た。すると山本次官は「今ごろドイツ、イタリアなどに行く必要はすこしもない。行くならば英米に出かけて、ルーズベルト、チャーチルの両者と懇談することがよっぽど肝要だ。是非決行したまえ」と直言したという。

 また、松岡洋右が外務大臣のとき、有終会(海軍予備軍人の会)に来て、さんざん陸軍の悪口を言った。すると山本次官は「松岡君は駄目だ。その調子では陸軍の前では海軍の悪口を言うだろう。海軍の前で海軍の悪口が言えるようでなければ本物ではないぞ」というような辛らつなことを真っ向から浴びせかけた。

 この米内、山本、井上時代の最も大きい歴史的特徴は、日独伊三国同盟交渉を流産させたことだ。ヒトラーの野望は、日独防共協定により、ソ連抑止のため日本陸軍を利用することだった。また日独伊三国同盟では、ポーランド侵略に際して、第一にイギリスを、第二にアメリカを、日本の海軍力により抑止することであった。

 このことから、山本五十六はドイツとの結合は日米関係を悪化させるとして、鋭く反対した。海軍のトリオは結束して日独伊三国同盟に猛反対し、最後までその態度を崩すことは無かった。

 それ以後も平沼首相や板垣征四郎陸相(陸士一六・陸大二八)が交渉進展に進むのを見ると、山本次官は昭和十四年五月九日、新聞記者に次の様に談話を発表した。

 「海軍は一歩も譲歩できず、いずれ政変は免れぬ故、天幕を張って待っておるがよろしからん。総理と陸相はけしからぬ。前に決定した方針を勝手に変えるとは何事か」

 これにより、陸軍や右翼方面の非難が山本次官に集中した。山本は五月三十一日、次官官舎で、「勇戦奮闘戦場の華と散らむは易し。誰か至誠一貫、俗論を排し斃れて已むの難きを知らむや。~此の身滅す可し、此志奪う可からず~」という「述志」(遺書)を書いた。

 米内大臣、山本次官、井上軍務局長のトリオは結束を崩さず、日独伊三国同盟締結に反対した。これに苛立った右翼がさらに山本次官に攻撃をしかけてきた。

 壮士風の男たちが連日次官室に押しかけてきては、「天に代わりて山本五十六を誅するものなり」などと斬奸状を読み上げる。

 陸軍の中堅将校もたびたび面会を強要してきた。「三国同盟に反対し続けると、第二、第三の二・二六事件が起きる」と脅し、「革命が起きてもいいのか」と迫った。

 そのとき山本次官は「革命が起きても国は滅びやせん、しかし戦争になるとそうはいかん」と答えたという。