陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

180.米内光政海軍大将(20) ドイツ人は何でも経済原論の第一章から説き始めるから嫌いだ

2009年09月04日 | 米内光政海軍大将
 この厚木航空隊の事件を当時、緒方竹虎が雑誌に発表したところ、寺岡謹平元海軍中将から緒方宛に次の様な趣旨の抗議の手紙が送られた(抜粋)。

 「貴下の玉稿を拝読しながら、次の様な随想が私の脳裏を走馬灯のように往復しました。これによって本当のことをご了解願いたいと思います」

 「私が小園と会ったのは八月十六日であるが、この会見については米内大臣から何等の命令をも受け取っておらず、それまで私は大臣にあってもおらず、人を介して命令をも受けず、書類も電報も受け取らず、私は自ら考える処があって会ったのである」

 「小園と刺し違えて死ぬことを米内さんは期待したようであったという根拠は何処から生まれたのであろうか。単なる想像と思うが、米内さんは決してそういうように考えていないことを確信する。この文面から見ると私が小園と刺し違えて道連れにしてしまえば、厚木は平穏に納まるものを、そうし得なかった私は無能で卑怯者の極印を押されているが、これはどうでも宜しい。第三者から見ればそう見えたかも知れない。見られても差し支えない」

 「米内さんの本当の人柄を表すならば、私は甘んじて尊氏になり、秦檜の役になって宜しい。而して私の命は前年比島に出陣した時から無いものと覚悟しているが故に、小園に会うために特別に遺書を認める必要も感じなかったし、実際私が小園と会った時は、厚木の隊内の空気は凄愴を極めていたが、小園は丸腰で私は江定次の名刀を所持していたので、小園一人を片付けるには訳はなかったのである」

 「翌十七日夕、小園は精神分裂病になって指揮能力を失ってしまったから、保科が遺書を書いたというのは、そのときまでの事のように書かれてあるのは時間的に見てもとんでもない誤謬である」

 「当時自らの命を絶つ者が頻発していた折柄、海軍首脳部では特に最後の最後まで自重して、祖国再建に献身すべきことを強調していた」

 「私は終戦後、隷下の兵力の復員を大体完了した一ヶ月経過後の九月十五日を以って予備役を拝命したのであるが、世間は如何に考えようとも、これは責任者として責を負うべく当然のことだと私は思って居る」

 「米内さんが私の処置振りを怒って私を首にしたというならば、それは側近者の誤った報告に基づくもので、九月一日に私が親しく状況の経過を説明報告した際、米内さんは特に『左様であったのか、それは、本当にご苦労でした』と慇懃な慰めの言葉を私に贈られたのである」

 以上が、寺岡中将が、緒方竹虎に出した抗議の手紙の概要である。寺岡中将には寺岡中将の論理があったわけであるが、緒方はこの手紙も「一軍人の生涯」に掲載して、公平を期した。

 マッカーサー司令部が横浜から東京に進駐して間もない頃、米内は、マッカーサー元帥に招かれて、会見を行った。この会見の席上、米内は「天皇はご退位にならねばならぬことになっているか」と質問した。

 マッカーサー元帥はむしろ意外な面持ちで「連合軍の進駐が極めて順調に行われたのは、天皇の協力によるところが多いと考える。自分は退位しなければならぬとは考えていない。この問題は日本国民の決する問題である」と答えた。

 米内の人物として、決して語り過ぎない人であったが、どうかすると語り足りない恨みはあった。ごてごて厚かましく理屈をいう人間はきらいであった。

 米内は「ドイツ人は何でも経済原論の第一章から説き始めるから嫌いだ。私はドイツにもいましたが、とうとうドイツ語を覚えませんでした」と語っている。

 米内は読書について、「この頃頭が鈍くなったから本は三度読む。初めは大急ぎで終わりまで読み通し、次は少しゆっくり、最後には味わって読む」と言っていた。

 東京裁判で、畑俊六の証人として米内が承認台に立ったとき、ウエッブ裁判長が米内の腹芸を読みかねて、散々きわどい質問を浴びせた上、「こういう愚かな証人に出くわしたことがない」と皮肉ったのは有名な話だが、キーナン検事は「あれは米内が畑をかばったのだ。米内は豪い男だ」と日本の要人に感想を漏らしたという。

 米内は酒に強くて、いくら飲んでも崩れない男だったが、一度だけ崩れたことがあった。大酒で有名だった松慶民元宮内大臣と焼けた宮内大臣官邸の洋間でウイスキーを飲んだ時だった。

 このときは二人とも、カーペットの上に腰を抜かし、やがて帰りがけに、米内は官邸の玄関から門に到る玉砂利の上で、四ツ匍いになっていたとのことである。

 昭和二十三年四月二十日、米内光政は目黒の自宅で最後の息を引き取り、六十九歳の生涯を閉じた。

 緒方竹虎は、臨終の場に居合わせた。苦痛の跡はなく大往生だが、初めて海軍大臣に就任した頃の豊頬の見る影もなきは勿論、眼はくぼみ、皮膚は枯れ、逞しい骨組みのみが目立った。

 そして枕頭に黙祷しながら、いつまでも頭を上げようとしない九十一歳の母堂の姿の如何に悼ましくも尊く見えたと、緒方竹虎はその著書「一軍人の生涯」に記している。

 (「米内光政海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「東條英機陸軍大将」が始まります)