陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

174.米内光政海軍大将(14)見るもよし聞くもまたよし世の中はいはぬが花と猿はいうなり

2009年07月24日 | 米内光政海軍大将
 総理を辞めた米内光政は、翌月の八月、日光に遊んだ。およそ、観光などしたことのなかった米内にしては珍しいことであった。

 そのとき、日光の「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿をみて、米内は「見るもよし聞くもまたよし世の中はいはぬが花と猿はいうなり」と詠んだ。

 昭和十五年七月二十二日、第二次近衛文麿内閣が誕生した。九月二十七日、ベルリンのヒトラー官邸において、日本大使・来栖三郎、ドイツ外相・リッペントロップ、イタリア外相・チアノの三代表によって署名、捺印され、日独伊三国同盟が締結された。当時の海軍首脳は、及川古志郎海軍大臣(海兵三一・海一三)、豊田貞次郎次官(海兵三三首席・海一七首席)だった。

 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、老体を病床に横たえながらも、日本の現状に憂慮を抱いていた元老西園寺公望公爵は、三国同盟の成立を知ると、そばに仕える女たちに向って次の様に言った。

 「これで、もうお前さんたちさえも、畳の上で死ぬことはできない」。西園寺公は、そう言うと終日床上に瞑目して一言も語らなかった。老公はその年の十一月、興津の坐漁荘で九十二歳の天寿を全うした。

 当時米内光政は閑職であったが、同盟締結を聞いて「我々の三国同盟反対は、ちょうどナイヤガラ瀑布の一、二町上手で、流れにさからって舟を漕いでいるようなもので、無駄な努力であった」と嘆息した。

 緒方竹虎が「米内・山本の海軍が続いていたなら、徹頭徹尾反対したか」と質問したら、米内は「むろん反対しました」と答え、しばらくしてから「でも、殺されていたでしょうね」と、いかにも感慨に耐えない風であった。

 昭和十五年十一月十五日、連合艦隊司令長官・山本五十六中将は、同期の前海軍大臣・吉田善吾中将、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将とともに海軍大将に昇進した。

 山本司令長官は、十一月二十六日から二十八日まで、目黒の海軍大学校で、連合艦隊の図上演習を統裁した。

 そのとき山本司令長官は及川古志郎海軍大臣から、山本の後任の連合艦隊司令長官を誰にしたらいいかと、相談をもちかけられた。

 十二月上旬、山本連合艦隊司令長官は、及川海軍大臣と伏見宮軍令部総長に「来年四月に予定されている連合艦隊の編成替えのとき、米内大将を現役に復帰させ、連合艦隊司令長官に起用されたい」と進言した。

 山本連合艦隊司令長官は米内が連合艦隊司令長官なら「対米英戦争は勝てない」という信念を貫くだろうし、次期軍令部総長にもなりやすいと思ったようである。

 及川海相も今度は同意した。ところが伏見宮軍令部総長が山本連合艦隊司令長官に意外なことを言った。「米内を現役に復帰させ、将来自分の後任とすることには同意するが、連合艦隊はお前がやれ」。山本五十六にとっては、信じられないような、願っても無いことであった。

 だが、伏見宮の米内に関することばは、社交辞令にすぎなくて、自分の意思に合う大角峯生か永野修身を後任の軍令部総長にするのが本心だった。

 昭和十六年四月九日、伏見宮は体調低下の理由で、軍令部総長の職を永野修身大将に譲った。第一候補は大角峯生大将だったが、二月初めに南支方面へ視察に行き、五日に広東で飛行機が墜落して、事故死していた。

 伏見宮は、対米英不戦派の米内を現役に復帰させて軍令部総長にする気などなかったのである。

 ドイツ、イタリアを訪問した松岡外相はモスクワに行き、四月十三日、スターリンを相手に、日ソ中立条約に調印した。

 昭和十六年十月十六日、近衛内閣は崩壊し、十七日、東條英機に組閣の大命が降下した。

 ともかく、このような状況により、日本の対英米敵視政策がふくらんでいき、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃を皮切りに、怒涛の如く日本は太平洋戦争に突入していった。