陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

178.米内光政海軍大将(18) 阿南からすれば、米内は不倶戴天の仇敵だった

2009年08月21日 | 米内光政海軍大将
 八月十二日午前零時四十分、日本の「ポツダム宣言受諾通告」に対するアメリカ側の回答がラジオで入ってきた。この回答の中に「天皇及び日本国政府の国家統治権限は連合国軍最高司令官の制限下に置かるるものとす」という内容があり、これでは天皇の地位安泰の保証がないと軍部の降伏反対、徹底抗戦が再燃の兆しが見え始めた。

 豊田軍令部総長は、梅津美治郎参謀総長(陸士一五・陸大二三首席)と共に参内し、「統帥部といたしましては、本覚書の如き和平条件は断乎として峻拒すべきものと存じます」と上奏した。戦争継続の震源である。この上奏は、米内海軍大臣には相談せずに行われた。

 米内海軍大臣は、豊田軍令部総長を呼びつけた。何を基礎に無断で上奏を行ったかとの詰問に、豊田軍令部総長は答えられなかった。

 やせ衰えた米内海軍大臣が、肥満の豊田軍令部総長に向って「軍令部総長の職にありながら、海軍の統制を破った。不届きである」と、驚くほどきびしく詰め寄った。

 豊田軍令部総長が退出した後、大西軍令部次長が、大臣室に来た。血相が変わっていた。言い争う声が聞こえた。大西軍令部次長は両肘を張り、こぶしを腰にあて、大臣をにらみ据えるような姿勢で立った。テーブルの反対側には米内海軍大臣も立ち上がっていた。

 米内海軍大臣は相手以上の大声で大西軍令部次長を叱りつけた。隣の部屋の秘書官たちは、米内海軍大臣のこんな怒声を聞くのは初めてだった。

 やがて大西軍令部次長は、しょんぼりした感じで出てきて、去っていった。代わりに秘書官が大臣室に入っていくと、米内海軍大臣は、今まで興奮して怒鳴っていた人とは思われない静かな口調で「事ここに至って、いよいよの土壇場になったら、相対的なことと、絶対的なことの区別だけ、まちがいないようにしなくてはいかん。それを言ったら、次長も分かってくれたようだ」と話した。

 この後、「海軍の腰抜けどもを焼き討ちにする」とか「海軍大臣の身辺、安全だと思うなよ」などと、脅迫や嫌がらせがあった。東部憲兵隊司令官・大谷敬二郎大佐(陸士三一・東大法学部派遣)の部下と称する憲兵少佐が、大臣秘書官のところへ「米内閣下の護衛をさせてもらいたい」と申し入れてきた。

 海軍大臣秘書官の間には代々「憲兵の護衛は断れ。あのシープドッグはいつ狼に化けるか分からない」という申し伝えがあった。「その必要はないと思いますが、一応大臣に伺ってみます」と秘書官が米内海軍大臣に聞くと、やはり「断ってくれ」とのことだった。

 だが、その憲兵少佐は「阿南陸軍大臣から直接命令を受けて来ております。このまま引き下がれません」と言って帰ろうとはしなかった。

 そこで秘書官が「憲兵は陸海両大臣の命令を受けられる立場のはずです。海軍大臣が帰っていただきたいと言っておられるのですから、お帰りください」と言うと。その憲兵少佐はやっと帰って行った。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、八月十五日の明け方、三宅坂の陸軍大臣官邸で阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣(陸士一八・陸大三〇)は自刃した。割腹する直前、阿南陸軍大臣は、義弟の、軍務課員・竹下正彦中佐(陸士四二・陸大五一恩賜)に「米内を斬れ」という言葉を遺して死んだ。

 米内海軍大臣と阿南陸軍大臣は、少なくとも気質的には水と油であったと言われている。竹下中佐は後に「率直に言って、阿南は米内がきらいだった。鈴木貫太郎首相(海兵一四・海大一)に対しては敬愛の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐していた。

 米内海軍大臣の方でも、戦後、小島秀雄海軍少将(海兵四四・海大二八)に、「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と洩らしている。

 「米内光政」(生出寿(おいでひさし)・徳間書店)によると、米内海軍大臣と阿南陸軍大臣は、ことごとく対立していて、阿南からすれば、米内は不倶戴天の仇敵だった。「米内を斬れ」は、最後に思い通りになれなかった陸軍の、陸軍に同調しなかった海軍に対する怨みのようでもある。

 米内が阿南に同調してポツダム宣言受諾に反対すれば、閣議も受諾反対・戦争継続となり、天皇もそれを承認せざるを得ないはずであった。

 戦後、藤田尚徳侍従長(海兵二九・海大一〇)から「もしあのとき鈴木内閣が戦争継続と決めて、ご裁可を願ったら陛下はどうなさいましたか」と聞かれた天皇は、「それは自分の気持ちとちがっていても、そのまま裁可したろう」と答えている。