昭和十九年六月二十七日、東條首相は陰謀の張本人である岡田を首相官邸に呼びつけて、「内閣倒壊運動の陰謀は怪しからぬ」と厳しく言った。この脅迫に岡田は屈しなかった。まさに正面衝突だった。
東條首相や嶋田海相の側近たちは最後の生き残るための策略をねった。結論はかつての金魚大臣の米内を無任所大臣に加えて、東條内閣の延命をはかるというものだった。
七月十七日、米内入閣をすすめるため、多くの人々が米内邸を訪れた。嶋田海相の下で勢威をふるった海軍省軍務局長・岡敬純中将、蔵相・石渡荘太郎らが、入れかわり立ちかわり現れては、米内を口説きに口説いた。
だが、米内はこれらの説得に対してポツリと「その意思はない」とだけ言った。
「木戸日記」によると、七月十七日午後四時から、平沼麒一郎邸で秘密裡に重臣の懇談会が行われた。その席上、米内は次の様に発言した。
「十三日以来、余の入閣につき、たびたび交渉ありしをもって、熟慮の上お断りすと書きて渡したり。岡軍務局長来り、海軍の総意云々といえるゆえ、自分が海軍に尽くすというのなれば現役復帰して、軍参事官なり何なりになりて働くのなれば判るが、国務大臣として入閣するとも何の力にもならず、それは筋が違うにあらずや、と答えておきたり。自分は入閣の意思なし」
この後、東條支持の阿部信行、東條退陣要求の岡田啓介の激しい応酬があったが、重臣たちは「内閣の一部改造のごときは、この難局を乗り切るにはなんの役にも立たない」と、東條内閣不信任案ともいうべき、前代未聞の申し合わせをした。
この日の夕方、重臣会議を済ませて家に帰った米内を、早くから待っていた陸軍軍人がいた。陸軍省軍務局長・佐藤賢了少将だった。
この東條の右腕の佐藤少将は、重臣会議の結果も知らずに、内閣更迭の不利を説き、米内の入閣を切に要望した。
米内は「佐藤君、僕は総理大臣として落第したことは君の知っての通りだ。政治家には向いていないんだな。だから政治に責任をもつ無任所大臣として入閣しても役に立たぬ」とあっさり断った。
そして米内は続けて「海軍に育ったから海軍大臣ならつとまるが、それ以外は務まらぬ。政治家としてではなく、あくまで僕は軍人として戦いたい」とも言った。
すると佐藤が面をおこして「あなたは東條内閣だから出ないのですか、それとも、いかなる内閣でも同様ですか」と詰め寄った。
これに対して米内は「もちろん、いかなる内閣でも無任所大臣は務まらない。そう東條君に伝えてくれたまえ」と淡々として答えた。
昭和十九年七月十八日、東條内閣は、あっけなく倒れた。東條は最期のあがきを示すことなく、用賀の家に引きこもった。「敵はついに倒れた」と海軍省詰の記者が叫んだという。
後継の小磯国昭内閣の成立に対して、新次官となった岡敬純中将を中心とする海軍中央は海軍大臣に野村直邦、軍令部総長に嶋田繁太郎を推し、米内光政を副総理(無任所相)になることを策したが、米内は頑として反対した。
天皇も米内を支持した。こうして七月二十二日、米内は海軍大臣になり、「海軍大臣在官中特に現役に列せしむ」との旨が、情報局から発表された。
米内の現役復帰は実現したが、末次信正大将の現役復帰は天皇の反対で実現しなかった。
七月二十三日、久しぶりに海軍省の門をくぐった米内海相は、高木惣吉教育局長から「次官には岡中将をそのまま使いますか?」と聞かれると、即座に「一夜にして放逐する」と答えた。
海軍という組織を率いた米内海軍大臣と、重臣および海軍長老との連絡提携は、比較的容易であったが、近衛公の一派および側近との連絡が、きわめて重要な反面に機微な障害もはらんでいた。
かつて米内内閣が陰謀につぶれた後に、松岡、東條らをかかえて、近衛公が登場した。この政変で、近衛公が倒閣に暗黙の了解を与えていたとの印象は、深く米内の脳裏にしみついていた。
東條首相や嶋田海相の側近たちは最後の生き残るための策略をねった。結論はかつての金魚大臣の米内を無任所大臣に加えて、東條内閣の延命をはかるというものだった。
七月十七日、米内入閣をすすめるため、多くの人々が米内邸を訪れた。嶋田海相の下で勢威をふるった海軍省軍務局長・岡敬純中将、蔵相・石渡荘太郎らが、入れかわり立ちかわり現れては、米内を口説きに口説いた。
だが、米内はこれらの説得に対してポツリと「その意思はない」とだけ言った。
「木戸日記」によると、七月十七日午後四時から、平沼麒一郎邸で秘密裡に重臣の懇談会が行われた。その席上、米内は次の様に発言した。
「十三日以来、余の入閣につき、たびたび交渉ありしをもって、熟慮の上お断りすと書きて渡したり。岡軍務局長来り、海軍の総意云々といえるゆえ、自分が海軍に尽くすというのなれば現役復帰して、軍参事官なり何なりになりて働くのなれば判るが、国務大臣として入閣するとも何の力にもならず、それは筋が違うにあらずや、と答えておきたり。自分は入閣の意思なし」
この後、東條支持の阿部信行、東條退陣要求の岡田啓介の激しい応酬があったが、重臣たちは「内閣の一部改造のごときは、この難局を乗り切るにはなんの役にも立たない」と、東條内閣不信任案ともいうべき、前代未聞の申し合わせをした。
この日の夕方、重臣会議を済ませて家に帰った米内を、早くから待っていた陸軍軍人がいた。陸軍省軍務局長・佐藤賢了少将だった。
この東條の右腕の佐藤少将は、重臣会議の結果も知らずに、内閣更迭の不利を説き、米内の入閣を切に要望した。
米内は「佐藤君、僕は総理大臣として落第したことは君の知っての通りだ。政治家には向いていないんだな。だから政治に責任をもつ無任所大臣として入閣しても役に立たぬ」とあっさり断った。
そして米内は続けて「海軍に育ったから海軍大臣ならつとまるが、それ以外は務まらぬ。政治家としてではなく、あくまで僕は軍人として戦いたい」とも言った。
すると佐藤が面をおこして「あなたは東條内閣だから出ないのですか、それとも、いかなる内閣でも同様ですか」と詰め寄った。
これに対して米内は「もちろん、いかなる内閣でも無任所大臣は務まらない。そう東條君に伝えてくれたまえ」と淡々として答えた。
昭和十九年七月十八日、東條内閣は、あっけなく倒れた。東條は最期のあがきを示すことなく、用賀の家に引きこもった。「敵はついに倒れた」と海軍省詰の記者が叫んだという。
後継の小磯国昭内閣の成立に対して、新次官となった岡敬純中将を中心とする海軍中央は海軍大臣に野村直邦、軍令部総長に嶋田繁太郎を推し、米内光政を副総理(無任所相)になることを策したが、米内は頑として反対した。
天皇も米内を支持した。こうして七月二十二日、米内は海軍大臣になり、「海軍大臣在官中特に現役に列せしむ」との旨が、情報局から発表された。
米内の現役復帰は実現したが、末次信正大将の現役復帰は天皇の反対で実現しなかった。
七月二十三日、久しぶりに海軍省の門をくぐった米内海相は、高木惣吉教育局長から「次官には岡中将をそのまま使いますか?」と聞かれると、即座に「一夜にして放逐する」と答えた。
海軍という組織を率いた米内海軍大臣と、重臣および海軍長老との連絡提携は、比較的容易であったが、近衛公の一派および側近との連絡が、きわめて重要な反面に機微な障害もはらんでいた。
かつて米内内閣が陰謀につぶれた後に、松岡、東條らをかかえて、近衛公が登場した。この政変で、近衛公が倒閣に暗黙の了解を与えていたとの印象は、深く米内の脳裏にしみついていた。