陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

172.米内光政海軍大将(12) ヒトラーやムソリーニは一代身上だ

2009年07月10日 | 米内光政海軍大将
 この頃、米内首相は内務省出身の高橋貢秘書官に「陸軍がさかんに精神論をやる。そりゃ精神の無いところに進歩も勝利も無い。しかし、海軍は精神だけでは戦争できないんだよ」と話している。

 さらに「工業生産の量、機械の質、技術の良し悪しがそのまま正直に戦力に反映する。国民精神総動員とか、陸軍のような大和魂の一本槍で海のいくさはやれないんだ」とも話している。

 ヨーロッパの戦局は、ドイツの電撃作戦が世界を震撼させた。四月九日に国境を越えてデンマークに侵入したドイツ軍は、三時間半後には首都のコペンハーゲンを占領し、デンマーク全土がドイツの保護下におかれた。

 五月には、オランダとベルギーがドイツに降伏。六月には西部戦線のイギリス軍は本土へ撤退。イタリアが英国とフランスに宣戦布告した。六月十四日パリが陥落した。

 これらの情勢から、日本陸軍ではナチスドイツ熱が高まり「バスに乗り遅れるな」という言葉が飛び交うようになった。新聞も大見出しで「対独伊関係緊密強化、帝国外交・一大転換へ」などとトップ記事が出たりし始めた。

 その頃、米内首相は、議員食堂で広瀬久忠と食事した時、「ヒトラーやムソリーニは一代身上だ、あんな者と一緒になってはつまらない。かれらはその身上を棒にふったところで、もともとだ。大したことは無い」と話した。

 さらに「ところが日本は三千年の歴史がある。その日本の天皇と一代身上者とを同じ舞台に出して手を握らせようなんて、とんでもない話だ」と話したという。

 いくら陸軍のドイツ熱が再燃したところで、米内が総理大臣の職にいる限りは三国同盟もやらず、新体制の国内改革も実行しないというので、倒閣運動が始まった。

 新体制の国内改革とは、既成の政党を解散させ、ナチスのように一国一党で日本の政治を行うというものだった。

 昭和十五年六月二十四日、近衛文麿は新体制運動を本格的に行うために枢密院議長を辞任することを決意し、後任に平沼麒一郎を推薦するつもりだった。そして両者の間にはすでに諒解ができているとさえ噂されていた。

 米内総理は限られた重臣の間に天下の公器を私するような傾向のあるのを、平常から面白くなく思っていた。その結果、米内首相は、近衛、平沼の期待はもちろん、世間の予想をも裏切って、原嘉道を後任議長に奏薦した。さらに副議長には海軍の鈴木貫太郎を推薦した。

 原嘉道は法曹界の重鎮で、田中義一内閣の法相も経験していたが、近衛、平沼としては顔を逆なでされたも同様だった。また、鈴木貫太郎の副議長就任は陸海軍のデリケートな関係から見ても、陸軍に挑戦するものに外ならなかったのである。

 七月初めには右翼による米内首相暗殺未遂事件が起こった。「首相が政治的所信を改めない限り、この内閣には協力できない」という態度を陸軍は見せ始めた。陸軍は米内内閣をつぶして、近衛を担ぎ出そうと決めた。

 陸軍の武藤軍務局長が石渡書記官長のもとにきて、「この内閣はすでに国民の信望を失っている。すみやかに退陣したらよかろう」と言って来た。二度、三度と同じことを言ってきたという。

 石渡が、あまりにも武藤軍務局長が来るので、「それなら僕に言うより直接首相に言ってはどうか」というと、「いや、首相には会う必要は無い」とうまくかわし、「どうしても内閣が辞めないというなら、陸軍大臣を辞めさせるほかはない」と脅迫した。

 米内首相は石渡書記官長からこの顛末を聞いて「それは陸軍の代表意見であるか、武藤の個人的意見であるか」と反問したが、明確ではなかった。米内首相は、直接畑陸軍大臣に糺した。

 畑陸軍大臣は「陸軍の政治的意見は大臣のみが述べることになっている」と答えた。そして、暗に武藤軍務局長の奔走を苦々しとする態度を示した。

 だが、木戸日記によると、七月七日、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍次官(陸士一八・陸大三〇)は木戸幸一内府を訪問して、武藤軍務局長と殆ど同様の理由を述べて、米内の退陣を求めていた。これからすると、倒閣運動は全陸軍の意向とも言えたのである。

 昭和十五年七月十二日、遂に、畑陸軍大臣は、米内首相を訪問して、次の三つの意見を述べた。

 一、現情勢にては独伊と積極的に手を握り、大東亜を処理する方針に出るの要あるべし。
 二、現内閣にては外交方針の大転換困難なるにつき、より善き内閣の出現することを前提として辞職しては如何。
 三、自分は部下の統率上非常に困難なる立場にあり、また益々困難を来す状況に立至るべきを憂慮す。