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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

330.岡田啓介海軍大将(10)東郷元帥がロンドン協定案には、明白な反対意見を表明した

2012年07月20日 | 岡田啓介海軍大将
 三人の元帥は、加藤全権を囲んで、その労をねぎらいつつ、親しげに、加藤全権の土産話に聞き入った。この明るく楽しげな光景の中には、軍縮協定の内容について、非違をあげつらう声は一言もきかれなかった。

 ところがその東郷元帥がロンドン協定案には、明白な反対意見を表明した。あらゆる機会に反対の意見を述べ、財部海相の進退にまで批判の言葉をかけている。

 これについては、元帥側近その他身辺の人々が提示した情報等が元帥の考えを左右したことも想像されるが、元帥のロンドン会議問題に対する強硬態度は、問題の紛糾を大ならしめたことは確かである。

 伏見宮の態度は、それほど始終一貫ハッキリしたものではなかったが、いずれかというと強硬派に属していた。この伏見宮と東郷元帥の協定案に対する批判的態度はいろいろと強硬派によって利用される嫌いがあった。

 一方、海軍省および岡田ら、妥協案を取りまとめてロンドン会議を成立せしめようと考える人々を支持するものは、元老・西園寺公望、牧野伸顕内大臣、斎藤実朝鮮総督、鈴木貫太郎侍従長がいた。

 鈴木侍従長が陛下の側近にあっての挙措は、加藤寛治軍令部長を怒らしめ、その神経を刺激し逆効果的な結果を齎(もたら)す場合がしばしばあったようである。

 三月二十四日軍事参議官会合が行われ、伏見宮、東郷元帥、岡田大将、加藤軍令部長、山梨海軍次官、末次軍令部次長、堀悌吉(ほり・ていきち)軍務局長(大分・海兵三二首席・海大一六恩賜・戦艦陸奥艦長・レジオンドヌール勲章・第一戦隊司令官・中将・勲二等旭日重光章・日本飛行機社長・浦賀ドック社長)が出席した。

 この会合では経過報告、回訓案の説明があり、各参議官の同意を得て、決裂には至らず、比較的簡単に会を終わった。

 三月二十五日、海相官邸に、岡田大将、加藤軍令部長、山梨次官、末次次長、小林艦政本部長、堀軍務局長が参集した。

 この会議でロンドンの随員・左近司政三中将が、全権・財部海相の意思を次のように通達してきているのを議題として話し合った。

 「米国案には不満足である。しかし全権として署名した。新事態の起こるを望む、目下苦慮中である」。

 これに対し、岡田大将は中間案を議したが、纏まることなく散会した。

 三月二十六日、岡田大将は海相官邸で山梨次官と話し合った。この際中間案を出すべきや否や、これを出すには非常な決意を要する。山梨次官は次のように述べた。

 「今や海軍は重大なる時機に際会している。この際、海軍の高官が濱口総理に対して意見を申し出ないのは、いかがなものでしょうか、ひとつ総理に会って下さい」。

 そこで、岡田大将は加藤軍令部長と同行して濱口総理に会うことにした。折から財部海相から濱口総理、幣原外相あてに「回訓案は中間案にて決意を附されたし」との電報が来ていた。

 岡田大将は加藤軍令部長に「協議の結果、大臣の意思が明瞭となった上は、軍令部から中間案を出すよう尽力されたい」と忠告した。

 だが、この日、濱口総理の意思が明らかになった。「この内閣は、ロンドン会議は決裂せしむべからず、中間案も決意を附するものならば、政府として考慮しがたい」というのである。

 三月二十六日午後三時、岡田大将は海軍最高官として、濱口総理を官邸に訪ねた。

 少し遅れて、加藤軍令部長がやって来た。加藤軍令部長は鈴木富士弥(すずき・ふじや)書記官長(大分県・東京帝国大学法科大学・弁護士・衆議院議員・民政党政務調査会長・党総務・鎌倉市長)に「総理が来いというので、やって来ました」と言った。

 すると鈴木書記官長は「いや、そうではありません。貴方のほうで来るということだから、総理は待っていられるのです」と言った。

 総理大臣私室で、岡田大将、加藤軍令部長、濱口総理の三者会談が始まった。まず加藤軍令部長が海軍の三大原則について詳説した。

329.岡田啓介海軍大将(9)元帥は今回の請訓に付ては大に不満足なる意を洩らされたり

2012年07月13日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田大将は、すでに昭和五年一月二十八日、牧野伸顕(まきの・のぶあき)内大臣(鹿児島・大久保利通の次男・東京帝国大学中退・外務省・福井県知事・茨城県知事・文部次官・イタリア大使・文部大臣・農商務大臣・外務大臣・宮内大臣・勲一等旭日桐花大綬章・内大臣・伯爵)、翌二十九日、西園寺公と会見していた。

 これら元老重臣の腹中を知り、全権の請訓到来後、斎藤総督と会って、その考え方を問うたのだから、その考え方は自ずと知れていた。

 「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店・第一巻)によると、その岡田大将の立場は次のようなものだった。

 「政府も『ロンドンから訓令を仰いで来ているのに、海軍部内が纏まらないようでは困る』というので、密かに幣原外務大臣と浜口総理大臣との間に話が出来て、岡田大将を外務大臣の所に呼んだ」

 「外務大臣から『一体、七割が少しでも欠けたら決裂した方がいいと思うのか、或は七割を欠いても纏めた方がいいと思うのか』と岡田大将自身の意見をただした」

 「すると、岡田大将は言下に『それは六割でも五割五分でも結局纏めなければならぬのだ』と答えたので、外務大臣も『それならぜひ一肌脱いで海軍部内を纏めてもらいたい』と話をされた」。

 昭和五年三月二十二日午前七時半、岡田大将は山梨次官の来訪を受けた。「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)によると、このとき山梨次官は次のように述べた。

 「軍事参議官会合はなるべく避けたい方針だったが、加藤寛治軍令部長の求めによってやむなく集合することにした。だが、当日は決議といったことは避け、単に経過の報告程度にとどめたい。この点軍令部長にも話しておいたが、貴官からも加藤大将に話しておいていただきたい」。

 そこで、軍事参議官会議が開かれる三月二十四日前日の、二十三日午前八時半、岡田大将は加藤軍令部長を私宅に訪ねた。そのときの様子が「岡田啓介回顧録」に次のように記されている。

 「加藤軍服帯勲にて応接間に在り何れに赴くやと問いたるに是より内大臣および侍従長に我配備を説明し米案の不可なるを説明に赴かんとする但し書類の点あれば末次の来るのを待つなり依て予は余程心して余裕を後日に残す様説明せよと忠言し尚二十四日の参議官会合に単に経過報告に止むべきを忠言せるに加藤は之を諾し山梨の希望もあり経過の報告に止むべし」。

 この日の加藤邸における岡田、加藤会見の模様、気負いこんだ加藤軍令部長の貌を、まのあたりに見るようである。岡田大将の筆は簡潔、短文のうちに、よく劇的の光景を活写している。

 同日午後一時、岡田大将は伏見宮に謁し、続いて東郷元帥に会っている。「岡田啓介回顧録」に次のように記されている。

 「午後一時伏見宮邸に参上明日軍事参議官の会合あれども私は此際大臣の意志明白ならずして意見を述べ難きにより只経過を聞くに止め度と申し上ぐ、殿下よりは財部の意思は明瞭なり彼出発前予に向い二度迄も今度の会議に於て我三大原則は一歩も退かさる旨名言せり大臣の意思を問合す必要なしとて幣原外交の軟弱なるを嘆ぜらる」

 「若し此際一歩を退かんか国家の前途判るべからず愈(いよいよ)とならば予は拝謁を願い主上に申上んと決心し居ると依て其重大事なるを申上事前に山梨に御知らせあらんことを御願し尚政府と海軍と戦う如きは避くべき理由を申上げたるに殿下は夫は何れも重大なる事だから秤にかけて定めなければならぬが扨(さて)何れが重きか中々六ヶ敷事なりと御笑あり一時五十分退出」

 「午後二時東郷元帥邸に元帥を訪問指導主旨の事を申たるに元帥は今回の請訓に付ては大に不満足なる意を洩らされたり」。

 ワシントン会議が終わって全権加藤友三郎が帰朝したとき、水交社で、次の三人の元帥が出席した。

 井上良馨(いのうえ・よしか)元帥(鹿児島・春日艦長・雲揚艦長・扶桑艦長・海軍省軍事部次長・男爵・軍務局長・参謀本部海軍部長・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・子爵・元帥・大勲位菊花大綬章)。

 東郷平八郎元帥(鹿児島・英国商船学校・浪速艦長・常備艦隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・海軍軍令部長・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・伯爵・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)。

 島村速雄(しまむら・はやお)元帥(高知・海兵七・イタリア駐在武官・戦艦初瀬艦長・第二艦隊司令官・海軍兵学校長・中将・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍教育本部長・軍令部長・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・元帥)。

328.岡田啓介海軍大将(8)海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とっても纏まりやせん

2012年07月06日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田大将はこれに応諾した。その日の午後、岡田大将は海相官邸に出向き、幣原外相の来るのを待った。午後一時半、幣原外相が現れ、請訓書を見せ、次のように述べた。

 「若槻、財部、松平、永井(松三)の四全権の署名のものである。同時に若槻全権からは『この上の尽力は出来難い』と言って来ているので、これ以上は政府としても押すことは困難である」。

 これに対し岡田大将は次のように述べた。

 「最後にはあるいはやむを得ないかも知れない。但し八吋巡洋艦は対米七割を絶対必要とする、また潜水艦の五万二千トンでは配備困難である。これは何とか緩和する方法を講じ、なお飛行機その他制限外艦艇をもって国防の不足を補うことにすれば、最後にはあるいはやむを得ないだろう、決裂は良くないと思う」

 「但し、現在の軍令部の案とこの案とは非常な開きがある。殆ど断崖から飛び下りるようなものだが、断崖から降下し得る途を研究してもらいたい。また、海軍大臣から省部に対し請訓について何等意思表示がない。山梨から海軍大臣の意向を問い合わすことを認められたい」。

 三月二十一日、山梨次官と原田熊雄(東京・学習院高等科・男爵・京都帝国大学・日本銀行・加藤高明首相秘書官・元老西園寺公望私設秘書・貴族院議員)から岡田大将に電話があった。

 二人とも、「斎藤実(さいとう・まこと)朝鮮総督(岩手・海兵六・海軍次官・海軍大臣・勲一等旭日大綬章・海軍大将・朝鮮総督・勲一等旭日桐花大綬章・子爵・首相・内大臣・大勲位菊花大綬章)に、今しばらく、在京されたいと頼んでくれ」という依頼だった。

 そこで岡田大将は斎藤邸に電話して都合を聞き、同日午後三時、四谷の斎藤邸を訪問した。岡田大将は斎藤総督に次のように言った。

 「私は別に何とかして下さいとは申さぬが、何となく今度は只ではおさまらないで、見苦しい場面を生ずる予感がする。どうか今しばらく滞在せられたい(朝鮮に帰るのを延ばしてほしい)」。

 さらに岡田大将は、軍縮に関する自己の意見を吐露した。これに対し斎藤総督は次のように述べた。

 「その外に途はない、その方針で進まれるがいい。しかし、自分は今夕、出発のことにすべての準備ができている、これを今更変更するのは却って宜しくない」。

 岡田大将は「今後も何分助力を願う」旨を述べて、斎藤邸を辞した。

 一九三〇年(昭和五年)から一九四〇年(昭和十五年)までの間における西園寺公望をめぐる政局の裏面を記した原田熊雄の日記、「原田日記」は、昭和二十五年に「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店・全八巻・別巻一)として出版された。

 今回の岡田大将の動きについては、「西園寺公と政局」には、次のように記してある(要旨)。

 「浜口首相と幣原外相との話し合いの結果、幣原外相が岡田大将と会見して、岡田大将の斡旋を依頼したところ、岡田大将は『どうも自分一人では軍令部長を抑えるわけには行かないから、斎藤朝鮮総督と一緒に努力しましょう』と言って、斎藤総督に会ってなお数日帰任を延ばしてくれるよう頼んだ」

 「けれども、総督も『あまり長く東京にいすぎたので今更延ばすわけにもいかぬ』という話であったので、岡田大将は斎藤総督に海軍の内部の纏め方について説明してただ同意を求めたところ、『至極尤もだ、ぜひその方法でやれ』ということで別れた」。

 以上の記述から、岡田大将の手記と「原田日記」は大体において筋は合っていた。

 「外交五十年」(幣原喜重郎・中央公論新社)によると、幣原外務大臣のロンドン会議全権の請訓に対する考え方は、何とかして海軍軍縮に関する協定を妥結しようとするものであり、次のように記されている。

 「米英を相手に会議がほとんど行き詰ったが、どうしようかという最後の請訓が来た。これは思い切って纏めるより仕方がない。海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とっても纏まりやせん。軍令部長の加藤(寛治)などの説には重きをおかないで、これだけの兵力量ということを、ピシャリと決めてしまった」。

 幣原は以上のようにアッサリとしたことを言っているが、この本は戦後に語ったことを出版したものだから、これだけハッキリ言えるが、当時はこれほど気楽にものが言える状況ではなかった筈である。だが、これは幣原の本音であったことは確かだ。朝鮮総督・斎藤実海軍大将についても、次のように述べている。

 「その頃海軍の先輩である斎藤実子爵が朝鮮総督をしていたから、財部君も京城で意見を交換したであろう。これは私は当時誰にも洩らさなかったが、その頃私は斎藤総督から私信を貰った。その手紙には、海軍部内とハッキリ書いてはいなかったが、わけのわからん説にあまり耳を貸しすぎて、この重大な問題を打ち壊すことのないように、そういう暴論は全然無視して、邁進しれくれというようなことが書いてあった」。

327.岡田啓介海軍大将(7)海軍省と軍令部、政府は混乱・紛議の坩堝(るつぼ)と化した

2012年06月29日 | 岡田啓介海軍大将
 ロンドン軍縮会議は昭和五年一月二十一日、ロンドンのセントジェームス宮で開催された。会談を重ねた結果、妥協案として、米国と日本の比率は次のような結論となった。

【大 巡】米国一八〇、四〇〇トン・日本一〇八、四〇〇トン(六〇・二パーセント)。
【軽 巡】米国一四三、五〇〇トン・日本一〇〇、四五〇トン(七〇・〇パーセント)。
【駆逐艦】米国一五〇、〇〇〇トン・日本一〇五、五〇〇トン(七〇・三パーセント)。
【潜水艦】米国五二、七〇〇トン・日本五二、七〇〇トン(一〇〇・〇パーセント)。

 この結果、補助艦の保有総トン数の比率は、米国の一〇に対して、日本は六・九五七という結論となった。

 この妥協案に対して、財部全権と海軍随員は不満の意を表して、自分たちは別に、政府に対して反対の意見を具申すると言った。

 だが、若槻主席全権はこの程度の案を持って、会議を妥協せしむべきであると決意し、長文の電報で政府の回訓を求めた。

 この若槻主席全権の請訓が来たのが、昭和五年三月十五日で、この日から東京では、海軍省と軍令部、政府は混乱・紛議の坩堝(るつぼ)と化した。

 この請訓を手交された海軍当局は省部を挙げて緊張の色を見せた。三月十五日、軍令部長室で、臨時省部最高幹部会議が開かれた。

 メンバーは軍令部から、次の二人を含め四人が出席した。

 軍令部長・加藤寛治(かとう・ひろはる)大将(福井・海兵一八首席・海軍大学校校長・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長)。

 軍令部次長・末次信正大佐(山口・海兵二七・海大七首席・教育局長・軍令部次長・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)ら四人が出席した。

 海軍省からは、次の三人を含め五人が出席した。

 海軍次官・山梨勝之進中将(宮城・海兵二五次席・海大五次席・戦艦香取艦長・人事局長・艦政本部長・海軍次官・佐世保鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・学習院院長・東宮御教育参与・戦後水交会会長・勲一等旭日大綬章)。

 艦政本部長・小林躋造(こばやし・せいぞう)中将(広島・海兵二六恩賜・海大六首席・横須賀鎮守府附軍法会議判事・英国駐在武官・第三戦隊司令官・軍務局長・中将・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・台湾総督・勅撰貴族院議員・国務大臣・勲一等旭日大綬章)。

 航空本部長・安東昌喬(あんどう・まさたか)中将(北海道・海兵二八・海大九首席・英国駐在・海軍大学校教官・戦艦霧島艦長・軍令部第二班長・霞ヶ浦海軍航空隊司令・中将・航空本部長)。

 この会議後、三月十六日、加藤寛治軍令部長が、軍事参議官である岡田啓介大将を訪ねてきて、次のように述べた。

 「全権から来た請訓は、潜水艦約六万トンとなっている。これでは不足だ。その不足分を飛行機で補うのだが、艦政本部でも、製艦能力維持上困難があり、また配備上よりするも困難がある」
 
 「最後は請訓のようなところになるやも知れないが、八吋(インチ)巡洋艦および潜水艦だけは譲りがたい。なお一押ししなければならぬ」。

 岡田大将は、これに同意した。

 昭和五年三月十七日、山梨次官が来て、まず、全権の請訓の内容を語り、これに対する軍令部や艦政本部の空気などを話した上、今後の方針について、岡田大将の所見を求めた。

 岡田大将は次のように答えた。

 「やむを得ない場合は、このまま、丸呑みにするより致し方がない。保有量が、この程度ならば国防はやり様がある」

 「会議は決裂させてはならぬ。但しなお一押しもふた押しもすべきである。またこの際海軍大臣の意見は那辺にあるか、電報で問い合わせをする必要がある」。

 三月二十日、再び山梨次官が岡田大将を訪ねてきて、次のように報告した。

 「財部海軍大臣の意向を問い合わせるについては外務大臣に難色がある。どうも加藤軍令部長の硬論と幣原喜重郎外務大臣(大阪・東京帝国大学法科大学・外務省・外務次官・外務大臣・貴族院議員・戦後内閣総理大臣・衆議院議員・衆議院議長・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)の意見との間には相当の距離がある」

 「どうか極秘の中に、外務大臣に会って話していただきたい。本日午後一時から大臣官邸に会合されるよう準備しますから」。

326.岡田啓介海軍大将(6)イギリスの比率主義とアメリカの個艦規制主義が対立した

2012年06月22日 | 岡田啓介海軍大将
 昭和四年七月二日、田中内閣は張作霖暗殺事件について、天皇に虚偽の上奏をした責任をとって、総辞職した。

 岡田啓介大将も海軍大臣を辞した。同時に軍事参議官に補された。軍事参議院は、元帥府とともに軍最高の諮問機関だった。

 当時、世界情勢の流れは緊迫していた。ワシントン会議は一応成功を収めたが、その協定は海軍の主力艦(戦艦・空母)に関する制限規定だった。

 だが、補助艦(巡洋艦以下、駆逐艦、潜水艦等)については、協定はなかった。このため、ワシントン会議の後に来たものは、各国の補助艦の建艦競争だった。

 この情勢を憂慮したアメリカ大統領、クーリッジは、ワシントン会議で決定できなかった、艦種を主題とする第二次軍縮会議を招聘した。

 その結果、昭和二年六月二十日からスイスのジュネーブに、日、米、英三国の代表が集まり、いわゆる「ジュネーブ海軍軍縮会議」が始まった。

 だが、残念なことに、この会議は決裂した。イギリスの比率主義とアメリカの個艦規制主義が対立したからだ。両国の主張は最後まで平行線のままで、妥協することなく不成功に終わったのだ。

 その後、アメリカではフーバー大統領が登場し、イギリスは保守政権が退陣し、マクドナルド率いる労働党内閣が登場した。

 昭和四年十月、マクドナルド首相自らアメリカに赴き、米国首脳と会談した結果、昭和五年一月を期し、ロンドン会議を開催することになった。

 日本では昭和四年七月、田中義一内閣が退陣し、濱口雄幸(はまぐち・おさち・高知・東京帝国大学法学部卒・大蔵省・専売局長官・大蔵次官・衆議院議員・大蔵大臣・内務大臣・勲一等旭日桐花大綬章)が内閣を組閣した。

 ロンドン会議の首席全権は、濱口首相が若槻礼次郎(わかつき・れいじろう・島根・東京帝国大学法学部卒首席・大蔵省・主税局長・大蔵次官・大蔵大臣・内務大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)を選んだ。

 また、全権には海軍大臣・財部彪大将、松平恒夫駐英大使(福島・東京帝国大学・外務次官・駐米大使・宮内大臣・参議院議長)、永井松三駐白(ベルギー)大使(愛知・東京帝国大学・外務次官・国際連盟日本代表・国際オリンピック委員会委員・貴族院勅撰議員・勲一等旭日大綬章)が選ばれた。

 海軍随員には次の六名が任命された。

 左近司政三中将(さこんじ・せいぞう・山形・海兵二八・海大一〇・英国駐在武官・戦艦長門艦長・軍務局長・練習艦隊司令官・海軍次官・中将・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・北樺太石油社長・商工大臣・勅撰貴族院議員・国務大臣)。

 山本五十六大佐(新潟・海兵三二・海大一四・米国ハーバード大学・米国駐在武官・空母赤城艦長・第一航空戦隊司令官・航空本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・戦死後元帥・勲一等加綬旭日大綬章・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章)。

 豊田貞次郎大佐(和歌山・海兵三三首席・海大一七首席・英国オックスフォード大学・英国駐在武官・戦艦山城艦長・軍務局長・佐世保鎮守府司令長官・航空本部長・海軍次官・大将・商工大臣・外務大臣・軍需大臣・貴族院議員・勲一等旭日大綬章)。

 中村亀三郎大佐(高知・海兵三三・海大一五・戦艦長門艦長・教育局長・練習艦隊司令官・軍令部第一部長・中将・海軍大学校長・佐世保鎮守府司令長官・勲一等旭日大綬章)。

 岩村清一大佐(東京・海兵三七・海大一九首席・英国駐在武官補佐官・戦艦扶桑艦長・横須賀鎮守府参謀長・艦政本部総務部長・中将・第二戦隊司令官・第二南遣艦隊司令長官・戦後日本事務能率協会理事長・勲一等旭日大綬章)。

 山口多聞中佐(東京・海兵四〇次席・海大24首席・米国プリンストン大学・米国駐在武官・戦艦伊勢艦長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・勲一等旭日大綬章・戦死後功一級金鵄勲章)。

 「岡田啓介」(岡田大将記録編纂会)によると、政府が若槻全権に与えた訓令は、次の「三大原則」だった。

 一、巡洋艦の比率を総トン数において、日本七、米国十の比率とする。二、大型巡洋艦において、右の比率とする。三、潜水艦については米国のトンに拘わらず、日本は七万八千トンを保有する。

325.岡田啓介海軍大将(5)海軍では同期生の大臣、次官というのは例のないことだった

2012年06月15日 | 岡田啓介海軍大将
 大正十一年六月、加藤友三郎大将は多くの信望を得て、内閣を組閣した。海軍大臣を兼務し、海軍次官に岡田啓介中将を選んだ。

 岡田啓介中将(海兵一五・海大二)と加藤寛治中将(海兵一八首席)は、ともに福井県の出身で同郷だった。

 二人は、条約派(軍縮派)と艦隊派(軍拡派)ということでよく比較されていた。岡田中将は清濁併せ呑む性格であったが、加藤寛治中将は潔癖で妥協が嫌いな性分だった。二人に共通するところはともに酒豪だった。

 信条は異なっていたが、二人は、仲が悪いということではなかったと言われている。旧藩主松平侯の祝いの席などで同席したときには、加藤寛治中将は、岡田中将に対して、先輩・後輩の礼を失わず、ともに愉快に飲み交わしていたという。だが、主義はあくまで異なり、「和して同ぜず」の仲だった。

 大正十二年五月、加藤友三郎大将はワシントン会議の後始末が終わったことから、兼任していた海軍大臣に、岡田中将と兵学校同期の財部彪大将を起用した。

 その後八月二十五日、加藤友三郎大将は首相在任のまま、大腸ガンの悪化で青山南町の私邸で死去した。享年六十二歳だった。

 大正十二年五月に岡田中将の兵学校同期の財部彪大将が海軍大臣に任命され、岡田中将はその下の次官であった。

 海軍では同期生の大臣、次官というのは例のないことだった。職務に関しては「貴様」と「おれ」の関係は許されなくなる。

 さらにすでに財部彪大臣は大将に昇進(大正八年)しているのに、次官の岡田啓介はまだ中将だった(大正十三年六月大将昇進)。

 だが、この関係はうまくいった。両雄互いに時をわきまえ、公私を混同しなかった。財部大将の才と岡田中将の度量の大きさを示すものだった。

 大正十三年六月岡田啓介は大将に昇進し、その年の十二月一日、第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官に任命された。第十五代の連合艦隊司令長官だった。前任の十四代は鈴木貫太郎大将だった。

 鈴木貫太郎大将と岡田啓介大将は、よく似た運命だった。ともに二・二六事件で青年将校により襲撃され、終戦時は、ともに祖国を滅亡から救うために尽力した。

 なお、岡田大将の後任の、第十六代連合艦隊司令長官は加藤寛治大将だった。「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)によると、連合艦隊司令長官について、岡田啓介は次のように述べている。

 「東郷元帥は別にして、そのころまでは、連合艦隊司令長官といっても、一般が英雄のように見る傾向はなかった。世間からもてはやされるようになったのは加藤寛治が長官になったり、末次がやったりしたころからだろう。ごく平穏におさまっていた世の中で、どうという思いでもない。思い出のないのが、たいへんいいことで、日本も平和だったよ」。

 ちなみに末次信正中将は昭和八年に二十一代連合艦隊司令長官に任命されている。

 昭和二年四月二十日、岡田啓介大将は、田中義一(山口・陸士八・陸大八・陸軍大臣・陸軍大将・勲一等旭日大綬章・男爵)内閣の海軍大臣に就任した。

 昭和二年五月、中国では中国国民党の蒋介石軍が北京を支配している張作霖を倒すため北伐を開始、内乱状態になった。

 田中義一内閣は在留邦人の保護を名目に、陸軍部隊を青島経由で済南市に派遣した。山東省は三井、三菱など多くの商社が進出していた。

 日本は権益保護ということで出兵した。「居留邦人百二十名虐殺」の虚報があり、翌年昭和三年には。第二次、第三次と出兵が続いた、新聞は誇大ニュースで国民の愛国心や同胞感情をあおった。

 岡田啓介海相は、このような陸軍の派兵について閣議の折、陸軍のやり方について反対意見を述べた。

 だが、田中首相を中心とした陸軍は耳を貸そうともしないで第三次派兵には一万五千名もの軍隊を送った。

324.岡田啓介海軍大将(4)日本はとうてい一等国という生活水準ではないことを知っていた

2012年06月08日 | 岡田啓介海軍大将
 だが、勝者の各国はかつてない総力戦に疲れ、永続的な平和を願う機運が生まれ、アメリカ大統領ウィルソンの提案で一九二〇年(大正九年)、「国際連盟」が発足した。

 日本は、戦争中は笑いが止まらぬ好景気だったが、戦争が終結すると、不況が襲来し、総予算の規模を縮小しなければならなくなった。

 財政膨張の最大要因は軍事費であった。なかでも莫大な使途は造艦費だった。虎視眈々と東洋進出をねらうアメリカの建艦運動との競争だった。

 経済恐慌は各国に吹き荒れ、特に大戦のため多くの艦船を失ったイギリスでは深刻だった。イギリスは東洋に多くの権益を持っている。大戦で無傷の日本を牽制する必要があった。

 大正十年十一月十二日、軍縮会議が米国ワシントンで開催され、五大国が主力艦の軍縮について討議することになった。

 この会議の日本全権は海軍大臣・加藤友三郎大将(広島・海兵七次席・海大一・首相・元帥・子爵・大勲位菊花大綬章)だった。

 加藤友三郎大将は軍備費拡大のため国民は物価高にあえぎ、日本はとうてい一等国という生活水準ではないことを知っていた。アメリカの無制限な軍備拡大を防ぐためにもなんとしても軍縮会議を成功させたいと願っていた。

 当時、岡田啓介中将(福井・海兵一五・海大二)は艦政本部長という造艦の責任者だった。岡田中将はかねてから加藤友三郎大将の人格、識見に傾倒していただけに、軍縮会議の成功を祈っていた。

 アメリカのヒューズ全権は「アメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率を五・五・三に抑えたい」と発言した。

 激しい怒りを表したのは主席随員の加藤寛治(かとう・ひろはる)中将(福井・海兵一八首席・海軍大学校校長・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長)と次席随員の末次信正大佐(山口・海兵二七・海大七首席・教育局長・軍令部次長・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)だった。

 加藤寛治中将は対米戦略の専門家で、末次信正大佐とともに、絶対に十・十・七でなければならないと主張していた。彼らには、艦隊拡張派といわれる軍令部の後押しもあった。

 加藤寛治中将は「十・十・七が受諾されないならば、日本は会議を脱退してもよい」と全権・海軍大臣・加藤友三郎大将に激しく迫った。

 だが、加藤友三郎大将は、会議の決裂が、各国の無制限建艦運動になることを危惧してアメリカ案を受諾した。

 加藤友三郎大将は「無益な戦争を国際法によって回避し、産業、貿易等を振興し、国民の生活を安定させるのが得策だ」と考えていた。

 もちろん、加藤友三郎大将も日本の増艦希望も述べ、比率の改正を提案したが、アメリカ、イギリスともに日本の東洋制圧を防ぐための会議であるから、引き下がるはずもなかった。

 全権・加藤友三郎大将は何度も本国に会議の状況を報告した。軍縮派の岡田啓介中将は、これらの通信から会議の成立を嬉しく思った。

 岡田中将は、幕末越前藩の財政建て直しをはかったという由利公正の「民富みて、国富む」の国富論を思い出していた。加藤友三郎大将の意見と全く同感だった。

 だが、煮え湯を飲まされた思いの、主席随員・加藤寛治中将(軍令部出仕・海大校長)、次席随員・末次信正大佐(軍令部作戦課長)ら軍令部艦隊拡張派は、日本の外交的後退と憤激した。

 ワシントン会議で軍縮案を呑んで無念の帰国をした加藤寛治中将は、艦隊派に同調していた東郷平八郎元帥(鹿児島・英国商船学校卒・連合艦隊司令長官・日本海海戦で勝利・海軍軍令部長・東宮御学問所総裁・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・伯爵・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)を訪ねた。

 このとき、東郷元帥は加藤寛治中将に「寛治どん、軍備に制限はあっても、訓練に制限はごわはんじゃろ」と言った。東郷元帥は日露戦争の日本海海戦前の猛訓練を思い出していたのだ。

 ワシントン会議から大正十一年三月に帰国した加藤寛治中将は、五月、軍令部次長に就任した。

323.岡田啓介海軍大将(3)実力で出世しても、妻のお陰で偉くなったと言われるぞ

2012年06月01日 | 岡田啓介海軍大将
 東郷艦長は、船長その他乗組員などを「浪速」に収容して、輸送船を撃沈しようとしたが、船長以下が「浪速」に移ることも清国将校が許さなかった。

 東郷艦長は、再度「艦を見捨てよ」と信号を送り、マストに赤旗を掲げ警告した。それでも応じなかったため、東郷艦長の命令で「浪速」は水雷と大砲を撃ち、「高陞号」を撃沈した。

 このことが日本内地に伝わると、英国の船を沈めたと大騒動になった。当時の伊藤博文総理大臣は西郷従道海軍大将を難詰した。だが、西郷大将は「東郷がでたらめなことをやるはずがない」とすましていたという。

 日本国は朝野をあげて、海軍はとんでもないことをしてくれたという空気だった。ところが、当時世界一流の国際法の権威だった英国の学者、ウェストレーキ・ホルラントが「東郷艦長の取った処置は正しい」という論文をタイムズ紙に発表したので、東郷批判はピタリと止んでしまった。

 そして、国際法に精通しているということで東郷大佐の声望が高まった。岡田少尉は東郷大佐の偉大さと国際法の持つ意味内容を改めて知った。

 「宰相岡田啓介の生涯」(上坂紀夫・東京新聞出版)によると、明治三十四年五月、岡田啓介少佐は海軍大学校甲種(二期)を卒業した。

 これで岡田啓介少佐は、海軍大学校の甲乙丙のすべてを卒業したわけで、当時はきわめて珍しいことであった。ところがその割に出世が遅かった。当時のことを、岡田啓介は次のように語っている。

 「私のクラスでは、財部彪が宮様なみに、どんどん進級していくだけで、わたしはなかなかうだつがあがらなかった。それで、若い者が学生を志願すると、上の人が『学生なんか受験するのはよせ。岡田を見ろ、片っ端から学生をやったが、一向にうだつがあがらんじゃないか』と言ったそうだ」。

 財部彪(たからべ・たけし)大将(宮崎・海兵一五首席・海軍次官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン会議全権)は秀才でもあったが、彼の妻は、今をときめく海軍大臣・山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大将(海兵二・防護巡洋艦「高千穂」艦長・軍務局長・海軍大臣・男爵・海軍大将・伯爵・首相・功一級金鵄勲章・大勲位菊花大綬章・大勲位菊花頸飾)の娘だった。

 この縁談が話題になったとき、明治三十年一月、ロシア留学を目の前にした、同期の広瀬武夫大尉(海兵一五・ロシア駐在武官・日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死)は、当時常備艦隊参謀であった財部彪大尉を訪れ、次のように言った。

 「貴様は、大臣の娘などもらわなくても十分偉くなれるのだ。実力で出世しても、妻のお陰で偉くなったと言われるぞ。残念なことではないか。この縁談はなかったことにしろ」。

 さらに広瀬大尉は山本権兵衛海軍大臣官邸を訪れた。山本海相に面会できた広瀬大尉は、山本海相に声を大きくしてこの結婚で被る財部大尉の不利を述べ、「この結婚は破談にしていただきたい」などと言った。

 だが、山本海相は聞き入れず、結婚はとりおこなわれた。そのせいか、財部彪は海軍兵学校十五期生では昇進が最も早かった。大将にも一番早く昇進している。同期の岡田啓介の出世と比べてみると次のようになる。

 海軍少佐進級は、二人とも明治三十二年九月二十九日で同じ。中佐進級は、財部が明治三十六年九月二十六日(三十六歳)、岡田は明治三十七年七月十三日(三十六歳)。

 大佐進級は、財部が明治三十八年一月十二日(三十八歳)、岡田が明治四十一年九月二十五日(四十歳)。少将進級は、財部が明治四十二年十二月一日(四十二歳・同日海軍次官)、岡田が大正二年十二月一日(四十五歳・大正四年人事局長)。

 中将進級は、財部が大正二年十二月一日(四十六歳・大正六年舞鶴鎮守府司令長官)、岡田が大正六年十二月一日(四十九歳・大正十二年海軍次官)。大将進級は、財部が大正八年十一月二十五日(五十二歳・大正十二年海軍大臣)、岡田が大正十三年六月十一日(五十六歳・昭和二年海軍大臣)。

 「岡田啓介の生涯」(上坂紀夫・東京新聞出版局)によると、大正七年十一月にはドイツが降伏し、四年四ヶ月にわたる第一次世界大戦が終結した。

 大正八年一月から、パリで講和会議が開かれ、六月にベルサイユで講和条約が調印された。日本は西園寺公望(さいおんじ・きんもち・京都・ソルボンヌ大学・侯爵・オーストリア特命全権公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・文部大臣・外務大臣・枢密院議長・首相・元老・大勲位菊花大綬章・大勲位菊花章頸飾・公爵)が主席全権としてとして参加した。

 日本は戦勝国側に立ってイギリス、アメリカ、フランス、イタリアと並んで押しも押されぬ世界五大強国の一つとなった。

322.岡田啓介海軍大将(2) 「済遠」は白旗を掲げながら逃げてしまった

2012年05月25日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田少尉は楽長に対して、「出ろというなら出るが、俺には技術上の指導など出来ないし、第一さっぱり音楽なんて面白くない」と言った。

 すると楽長は「技術上のことは私がやりますが、あなたが聞いて面白くないのは、音楽がわからないからです。私がわかるようにしてあげましょう」と答えた。

 それから毎日のように、楽長は岡田少尉の部屋にやって来て、「これがピッコロ、これがドラム」と楽器の説明に始まり、今日はこういう曲をやります、これはだれが作曲したもので、この音にはこういう意味がある、などと面白く話をした。

 岡田少尉は訓練にも引っ張り出されて、演奏を聴かされる。そうやって聴いているうちに、まんざら面白くないこともないようになった。

 その楽長は、ドイツへも留学して修業した人で、名前は思い出せないが、その熱心さには感心した。後に首相になったとき、食事の席上、岡田首相が演奏を聴きながら音楽の話をしたら、周囲のものが驚いていた。

 軍楽隊の分隊長は三ヶ月ほどで、次は巡洋艦「浪速」(三七〇九トン)の分隊長心得になった。明治二十七年七月の日清戦争開戦の一ヶ月前だった。

 分隊長は少佐か大尉がなるのだが、当時は中尉という階級がなくて、少尉からすぐに大尉になった。だが、その代わりに少尉を四年ばかりやらされた。分隊長心得というのは少尉のままだからだった。

 「浪速」では岡田少尉は前部十五サンチ副砲の指揮官だった。艦長は東郷平八郎大佐(鹿児島・英国商船学校・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)だった。

 東郷艦長は穏やかな人で、小言を言ったことがなく、乗員はみな非常に尊敬していた。とても勉強家で、国際法をよく研究していた。

 当時朝鮮問題で清政府が朝鮮に軍事介入を通告し、大島圭介公使の身辺も危険になったので、陸戦隊が上陸して警備することになった。

 清国は日本が撤兵しなければ、日本と戦争を始めると朝鮮政府に通告した。そこで日本も腹を決めて、混成旅団を送ることになった。

 「浪速」は陸軍を護衛して仁川に行くことになった。当時「浪速」は常備艦隊の第一遊撃隊で、常備艦隊の司令長官は伊東祐亨中将だった。

 明治二十七年七月二十四日、常備艦隊第一遊撃隊の防護巡洋艦「吉野」、防護巡洋艦「秋津島」、防護巡洋艦「浪速」の三隻は佐世保を出港、翌日二十五日、朝鮮の西側で清国の軍艦「済遠」と「廣乙」に出会った。

 軍艦はすれ違えば必ず敬礼するし、将旗を掲げている艦に対しては、大将、中将など階級に応じた数の礼砲を発射する習慣になっていた。

 第一遊撃隊の旗艦、「吉野」には、司令官・坪井航三少将が座上していた。まだ清国と日本は表面上は平常状態なので、当然向こうから礼砲を撃たねばならないのに、それをしないばかりか、いきなり実弾を撃ってきた。

 岡田少尉は驚いたが、こちらも、その位のことはあるだろうと、警戒していたので、すぐ応戦した。向こうは二隻だが、後で「操江」も加わり、三艦対三艦の戦いとなった。

 海戦の結果、清国の「廣乙」は遁走の途中座礁して爆発し、「操江」は捕獲された。「済遠」は白旗を掲げながら逃げてしまった。

 これが豊島沖海戦で、日本側は「吉野」が少しやられ、岡田少尉の乗り組んでいた「浪速」が後甲板に弾丸を受けたが被害はほとんどなかった。日本側の死傷者はなかった。

 この海戦の最中、英国旗を掲げた輸送船「高陞号(こうしょうごう)」がやって来た。よく見ると、清国兵が多数乗っているようだった。

 岡田少尉がどうすべきかと、思っていると、東郷艦長は「高陞号(こうしょうごう)」に対して空砲二発を撃たせ、手旗信号で停止、投錨を命じた。その後すぐに臨検士官を送って英国人船長に面会させ、船内を臨検した。

 その結果、清国兵一一〇〇名と大砲一四門、その他武器弾薬を輸送中であることが判明した。東郷艦長は捕獲することを決定し、「浪速」のあとについてくるよう命令した。

 ところが、乗っている清国兵が英国人船長や乗組員を脅して命令をきかなかった。船上では、清国兵が銃や刀槍を持って走り回り、不穏な動きが見られた。

321.岡田啓介海軍大将(1)岡田少尉が「生意気言うな」と怒って殴るかも知れない

2012年05月18日 | 岡田啓介海軍大将
 明治二十七年、岡田啓介少尉は、横須賀海兵団の分隊長心得として勤務していた。「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)によると、当時、若い士官は誰でも威勢のよい艦隊勤務を望み、海兵団などへ行くのをありがたがらなかった。

 そんなとき、岡田少尉の配置は、海兵団で、しかも、軍楽隊の分隊長心得だった。音楽は、岡田少尉の柄に合わなかった。岡田少尉は音痴だったし、どう考えても面白くなかった。

 軍楽隊の訓練は、プカプカ、ドンドンやることなんだから、岡田少尉は「自分が分隊長であってもかかわりのないことだ。私が直接教育することといったら敬礼とか、海軍の当たり前のしつけ位のものだ」と思って、毎日私室のベッドにひっくり返って寝てばかりいた。

 するとある日、楽長が岡田少尉のところにやって来て、「あなたは、隊員の訓練のときも、ちっとも出てこないが、それではみんなの励みになりません。分隊長はぜひ毎日出てきて下さい」と言った。

 楽長というのは、分隊士で、上官に向かって、そういうことは言いにくいものだ。岡田少尉が「生意気言うな」と怒って殴るかも知れない。それを承知で、進言しに来たのだ。

<岡田啓介(おかだ・けいすけ)海軍大将プロフィル>
慶応四年一月二十一日(新暦二月十四日)福井県福井市手寄上町生まれ。父・岡田喜藤太(福井藩士)と母・波留(はる)の長男。
明治七年(六歳)五月藩校から旭小学校に転入学。
明治十三年(十二歳)五月名新中学校入学。
明治十七年(十六歳)九月旧制福井中学校(旧名新中学校)第一回生として卒業。
明治十八年(十七歳)一月上京、神田共立学校、有斐学校などの受験予備校に入る。十一月二十一日海軍兵学校合格。十二月一日海軍兵学校入校。
明治二十二年(二十一歳)四月二十日海軍兵学校卒業(一五期)。卒業成績は、財部彪が首席、竹下勇が三番、小栗孝三郎が五番、岡田啓介が七番だった。この四人が後に海軍大将になった。
明治二十三年(二十二歳)七月海軍少尉。「浪速」分隊士。
明治二十六年(二十五歳)十二月海軍大学校丙号学生課程卒業(恩賜)。
明治二十七年(二十六歳)「厳島」乗組。三月横須賀海兵団分隊長。六月「浪速」分隊長。七月日清戦争従軍。十二月海軍大尉、「高千穂」分隊長。
明治三十年(二十九歳)四月練習艦「比叡」分隊長として、米国、ハワイ等へ遠洋航海。
明治三十一年(三十歳)十二月海軍大学校水雷術専科教程卒業(恩賜)。
明治三十二年(三十一歳)三月海軍大学校甲種学生。九月海軍少佐。
明治三十四年(三十三歳)五月二十四日海軍大学校甲種教程(二期)卒業。五月二十五日川住英(かわすみ・ふさ)と結婚。六月海軍軍令部第三局員兼海軍大学校教官。
明治三十七年(三十六歳)「八重山」副長、七月海軍中佐。
明治三十八年(三十七歳)四月「春日」副長。十月「朝日」副長。
明治四十一年(四十歳)九月海軍大佐、海軍水雷学校長。
明治四十三年(四十二歳)七月「春日」艦長。十二月二十日妻・英(ふさ)死去(三十一歳)。
明治四十四年(四十三歳)一月海軍省人事局員。二月父・喜藤太死去(八十一歳)。
明治四十五年(四十四歳)三月迫水郁(さこみず・いく)と結婚。十二月「鹿島」艦長。
大正二年(四十五歳)十二月海軍少将、佐世保海軍工廠造兵部長。
大正三年(四十六歳)八月第二艦隊司令官。十二月第二水雷戦隊司令官。
大正四年(四十七歳)功三級金鵄勲章。十二月海軍省人事局長。
大正六年(四十九歳)十二月一日海軍中将、佐世保海軍工廠長。
大正七年(五十歳)十月海軍省艦政局長。
大正九年(五十二歳)十月海軍艦政本部長。十一月勲一等旭日大綬章(大正四年・九年戦役)。
大正十一年(五十四歳)一月海軍次官代理。
大正十二年(五十五歳)五月海軍次官。
大正十三年(五十六歳)六月海軍大将、軍事参議官。十二月第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。
昭和元年(五十八歳)十二月横須賀鎮守府司令長官。
昭和二年(五十九歳)四月二十日海軍大臣。
昭和三年(六十歳)十一月妻・郁死去(四十七歳)。
昭和四年(六十一歳)七月軍事参議官。十二月議定官。
昭和七年(六十四歳)五月二十六日海軍大臣。
昭和八年(六十五歳)一月勲一等旭日桐花大綬章。後備役。
昭和九年(六十六歳)七月八日内閣総理大臣兼拓務大臣。
昭和十一年(六十八歳)二月二十六日「二・二六事件」岡田首相の秘書官、妹婿・松尾伝蔵大佐が身代わりに射殺される。三月依願免本官、謹慎生活に入る。
昭和十二年(六十九歳)四月特に前官礼遇を賜う。
昭和十三年(七十歳)一月二十一日退役。
昭和十九年(七十六歳)東條内閣倒閣運動を起こす。
昭和二十年(七十七歳)終戦内閣首相に鈴木貫太郎大将を推挙。八月終戦。
昭和二十一年(七十八歳)極東軍事裁判に証人として出廷。
昭和二十二年(七十九歳)一月心臓発作。高齢につき特に宮中杖を差許さる。
昭和二十五年(八十二歳)「岡田啓介回顧録」(談話筆録)出版。
昭和二十七年(八十四歳)十月十七日肺炎のため死去。十九日築地本願寺で葬儀。葬儀委員長・吉田茂。多摩墓地に眠る。