OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

"どう生きるのか"の原点

2022-01-03 13:03:36 | Weblog
思春期頃からずっと、大概の人にとっては、とても重要なテーマだと思う・・・自分がいかに生きるべきか、自分がどう生きていきたいのか。それを見つけて邁進する人もいれば、悩みながら模索し続けている人もいるだろう。わたしはといえば、ずっと後者だったなぁ~、この年に至るまで、ずっと。そして今、その問いが、大きく変容していくのを感じている・・・

最近、母が「もう死にたい」と言う回数が減った。ここ一か月ほどは、ほとんど聞いていない気がする。夫は「少しは前向きな気持ちになれたのかな」と言っていたが、わたしは違うと思う。そんなことを考えることすらできなくなっているのでは・・・と思う。それは・・・酷い言い方かもしれないが、母にとっても、母の側で世話する人にとっても好いことだと思う。死にたいと思いながら暮らす本人はもちろんだが、それを毎日何回も聞かされる者にとっても、それはとてもシンドイことだから。

母にとって"どう生きるのか"の問いは、あまりにも過酷だ。望む選択肢のほとんどを遮られてなお"どう生きるのか"と自らに問うのは、ほんとうにあまりにも残酷だ。だから、そんな問いさえ、頭に浮かばなくなることは、今の母にとっては救済であるとさえ、わたしは思う。

けれど、人間を人間たらしめているものは何か・・・それは自らの生き様を模索しようとすること、自分の命に意味をあたえようと懸命になることではないかと考えていた私にとって・・・

人間は、ただの一人として"自らの誕生を選択できない"。なら、自らの死についてはどうだ。やがて必ず死ぬということについては、だれもその運命からは逃れられない。だから、どんなに莫大な資産を所有していようと、どんなに高い地位にいようと、どんなに大きな影響力をもっていようと、どんなに多くの人に愛されている人であっても、望まない形で死を迎えることは、あたりまえに起こってのだが・・・いや、そもそも望む形の死というもの自体が存在しないのだろうが・・・誕生に関するどうしようもなさに比べれば、いくらかの融通がある気もする・・・

この年になって、未だ"どう生きるのか"を見つけられずにいる私が、それを見つけるより先に、"どう死ぬのか"について真剣に考え始めているというのは・・・残念なことなのか・・・いや、そんなものなのかなぁ~、とも思う。元日から、酷い頭痛に悩まされ、いつもより多くの鎮痛剤を飲み続けているせいかもね・・・こんなことばかり考えてしまうのは(^^;。

ただ、安心して欲しい、知人友人の皆さん。こんなことを考えてるということは、まだまだ、わたしはわたしらしく在るということです。うつ症状っていうよりは、とても私らしい自問自答をしているってことでありますので・・・ああ、あの子らしいなと笑ってやってください(^^)。


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