OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

いずれ、そこがどこであれ、どこかに流れ着くでしょう・・・(意味なく長文)

2019-08-05 10:33:30 | Weblog
ゴーヤは連作を嫌う植物らしいのですが、居間のグリーンカーテンとして植えているので、場所を変えるというわけにもいかず・・・とりあえず、土を十分に耕し、肥料をし、ゴーヤはゴーヤでも馴染みのある細長いゴーヤではなく、グリーンアップルゴーヤという、丸く育つ種類のゴーヤを植えてみましたが・・・やっぱり、十分には茂ってくれなかったです・・・来年は、プランターで植えてみようかなと思っています。

葉っぱも茂らないのですが、実も、大きくなる前に突然黄色く(夕方まで普通だったのに翌朝見ると真っ黄々)なってしまうものが続出・・・写真は、そんな黄色くなったゴーヤです。中の種の周りのワタは赤くなってますね。美しい色彩ではあるのですが・・・

そんな、夏と植物に関連したお話ですが・・・わたしは、藍那の周りに常にたくさんのお花が咲いていないと嫌なので・・・毎年、この時期(夏場)は大いに苦闘しています。毎朝、すべての花瓶の水を変え、毎回すこし茎を切りそろえ、それでも萎れてしまったら、すぐに新しいものを買い求めたり、庭から手折ってきて新しく元気な花を飾るようにしています。

当然のように、ずっとそうしてきたのですが・・・今年になって、ふと、そんな作業をしている時の自分の顔が、鬼のようだなと感じたんですよね。で、それでいいのかなと・・・わたしは何のために、これらの花を飾っているのかなと・・・

藍那の為のはずなのに・・・自分の為になっているんじゃないかと・・・まあ、そう、藍那の為というのは、最初から偽善というか、慰めというか、結局は自分の為だと、どこかで承知はしているので、百歩譲って、藍那の為じゃなく自分の気が済むようにやっている行為だとしても・・・なんか余計な意地を張っていないかと・・・ただムキになっているだけじゃないかと・・・なんじゃそれはと・・・本来の意図や意味とは、かけ離れてしまっているじゃないかと・・・

藍那と一緒に季節の花を楽しもうじゃないか・・・ね・・・それが本来ですよね。花の数や量、見た目どれほど豪華に飾り立てるか、そんなことに拘っていたら、一番大切にしたいものを置き去りにしちゃいますよね・・・

ちょっと話は飛躍しますが・・・付き物が落ちたように自己への拘りが薄くなってから、見える景色が、ずいぶんと違ってきたんですよね・・・

以前はね、己の内部に真摯に向き合う行為というのは、より高次な人間の営みだと思っていて、そこに拘る人は素晴らしいけれど、世俗的な成功だけを追い求める人たちは下劣だ低俗だと思う傾向が強かったんですが・・・

以前は、あれほど素敵に見えた、自己にこだわって制作活動をしている創作活動家の人たちの言動を、今のわたしが見ると、どうも幼いと感じてしまうというか、未発達な人のようにも思えてきて・・・以前のように憧れたり、羨んだり、ましてや尊敬したりと言った感情は湧いてこなくなりました・・・むしろ、己のない人に強く惹かれるようになってきました・・・

よく自分に自信がないから、グループの一員でいることに必死になるとか、誰かに支配されることで安心するとかってことがあると聞きますが、そういうことではないですよ。そういう人にも、ちゃんと守りたい自己というものがあって、それに拘っているからこそ、そうなっちやうわけですからね・・・ね。

で、なんの話でしたっけ・・・そう、自己への拘りが薄くなったとはいえ、花を飾るというような些細な日常の中で、相変わらず、自己中心的な発想でもって、自分を縛り付けて苦しくなっちゃってるなって・・・そういう話なんですが・・・

話しているうちに、つくづく、わたしって芸術家というか、創作者にはなれないなと実感しています。

かなり熱心な文学少女だった私が、わたしも小説を書きたいと思わなかったのは、思春期になっても自分にエロスの要素があまりにも希薄だと感じたからなんですよね。文学には、それをメインにするしないは別にしても、性的な感受性が重要だと感じていたので。それは役者さんという職業でも同じで・・・演劇は好きだったけど、エロスの感受性があまりにも希薄なわたしは、役者さんになっても決して大成しないだろうなと思っていました。

それは、他の全ての創作活動にも通じることではあると思うので・・・アーティストとかクリエイターだとかいうものには、決してなれないと、そう思っていました。だって、人間が分からないんですもの・・・人間にとって重要な愛とか恋とかの複雑な心の動き・・・機微って言うんですか・・・心の襞みたいなものが分からないんですもの・・・

ただ、わたしには強い自己への拘りがあり・・・何度も言ってきましたが、ずっと「究極的関心事は自分という存在」だっだわけで・・・そこは誰にも負けないという自負があったので・・・男女のあれやこれやの感情にほとんど興味が持てないから、小説家にも役者にもなれないけど、この自身への強い拘りから何かが生みだせるのではないかと・・・一縷の望みを抱いていたのですが・・・それすら手放してしまった今・・・いったい、わたしって、どうなってしまうのかなぁ~・・・・(^^;

まっ、いっか・・・ね・・・まっ、いっかですよ・・・いずれ、そこがどこであれ、どこかに流れ着くでしょう・・・


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