オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

いと高き方の子

2012-12-09 00:00:00 | 礼拝説教
2012年12月9日 主日礼拝(ルカ1:26-38)岡田邦夫


 「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」ルカ福音書1:31

 教会はお隣から畑を借りています。牧師は三田に来るまではほとんど畑仕事をしたことがないので、地主さんがやり方も秘訣も何でも教えてくれます。ところが、教会員が牧師を先生と呼ぶので、地主さんも牧師にこう言うのです。「先生、これはこうしたほうがいい」。畑に関しては地主さんが先生のはずですが…。一般にその道に秀でた人を、発明王とか、野球の神さまとか、神の手を持つ人とか呼んで賛辞します。ところが、イエス・キリストの場合、生まれてくる前から、どう呼ばれるかということが預言されていたのです。
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザヤ9:6)。
 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる(訳すと、神は私たちと共におられる、という意味である。)」(マタイ1:23)。

◇偉大な人
 ルカ1:31ー32にもあります。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者(「偉大な人」新共同訳)となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」。
 イエスは生まれてくる前から、まだ何もわからない時に、「偉大な人」となると告知されたのです。その告知を受けるマリヤにとってはとても受けとめがたい事柄です。ヨセフとはいいなずけであり、彼は正しい人で、二人は結婚前のきよい関係を保っていましたのに、もし妊娠をしたと世間に知られれば、ユダヤの社会では重い罪を犯したと見なされる事態です。
 しかし、ほんとうは素晴らしい事態なのでした。聖書には神から御使いガブリエルが遣わされて、ガリラヤのナザレという町の処女マリヤに告知をしたことが記されています。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」(1:28、1:30-31)。処女なのにそれはありえないと戸惑うマリヤにこう告げられるのでした。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。…神にとって不可能なことは一つもありません」(1:35、37)。彼女は普通のおとめでした。聖書では後には「イエスの母マリヤ」と記されているだけで、称賛されたり、特別扱いをされたりしていません。謙虚で、素直で、御言葉に親しんでいたことは確かですが、普通の人でした。しかし、神が臨んだのです。その恵みのメッセージに、マリヤは抗しがたいほど圧倒されたのです。聖霊に促されて、信じ受けとめたのです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と(1:38)。私たちはこのマリヤの信仰にならいたいと思います。
 ここで重要なのは告知の内容です。受胎される神の子、救い主・イエスという方がどう呼ばれるようになるのかを預言していることです。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者(「偉大な人」新共同訳)となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」(1:32)。
 世界の偉人物語というのは小中学生に読んでほしい本です。その中にはキリストも偉人の一人として出てきます。イエス・キリストは世界で最も影響を与えた偉大な人物です。福音書によると救い主の先駆者、洗礼者(バプテスマの)ヨハネも「 彼は主の御前に偉大な人になる」と預言された人物で(ルカ1:15)、イエスから「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と評された預言者でした(マタイ11:11共)。しかし、そのヨハネが「わたしの後から来る方(救い主(キリスト))は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない(低い奴隷以下です)。」とイエスを紹介したのです(マタイ3:11)。ヨハネの偉大さは「荒野で叫ぶ声」でした。声は人に伝わりますが、消えていくものです。最小限の質素な生活で、救い主の到来のために道備えをするという使命に徹し、ついにヘロデ大王に首を切られて殉教していきました。そのことがあってから、イエスの活動が始まるのです。ヨハネの偉大さは「自己犠牲」にありました。その彼が足もとに及ばないのはイエスの受難であり、自己犠牲でした。彼をはるかに越えた、人類史上、最も偉大なものでした。この「偉大な」はギリシャ語でメーガスです。その語からきたのが、英語のメガポリス=巨大都市、メガトン=100万トンの「メガ」です。主イエスの十字架における犠牲の愛はメガトン級の、いえ、それをはるかに越えたもので、全世界、全歴史の人々、私たちのすべてを救えるところの偉大なアガペーの愛なのです。

◇ナザレの人
 ヨセフとマリヤとイエスはヘロデ王の殺害の手から、エジプトに一時避難し、やがて、ガリラヤ地方に帰り、ナザレという町に行って住みます。マタイ2:23 には「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」と記されています。実際、「ナザレのイエス」と呼ばれるようになったのです。旧約聖書にはこのような預言の言葉は出てきませんが、たぶん、預言の意味だけを記したと思われます(教父ヒエロニムスの説明)。ナザレは新芽という意味なので、救い主はダビデの子孫から生まれるという預言、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」の実現ととれます(イアザヤ11:1)。また、寒村なので「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)と言われているところから、救い主が私たちの救いのために「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」という受難の預言を指しているともとれます(イザヤ53:3)。
極限に「さげすまれた」のは十字架にかけられた時です。そのさげすみによって、私たちは癒されたのです。本来、どんなにさげすまれてもおかしくない私たち罪人を罪と滅びの中から救い、神との関係、本来的な癒しをもたらすために、主は十字架でさらし者にされ、さげすまれたのです。これほど、偉大な愛はないでしょう。

◇いと高き方の子
 ところで、イエスはそうなる運命だったのでしょうか。運命というのは何かそれをあやつる何ものかがあるということです。しかし、イエス・キリストは決して、あやつられていたのではありません。皇帝アウグストの人口調査の命令で、やむなくベツレヘムに行ったのではなく、ダビデの町で生まれるためでした。ヘロデ王に殺されそうになったので、やむなくエジプトに逃げたのではありません。かつてエジプトの奴隷から解放させたモーセにまさる、罪の奴隷から解放する救い主として、象徴的にエジプトに下ったのです。ユダヤ人の陰謀により、総督ピラトの前でやむなく十字架刑に処せられ、殉教したのではありません。人類救済のための贖いとなるために、自らすすんで犠牲のいけにえとなられたのです。
 そこには気高い意志をもって、救いの業がなされていったのです。ですから、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」とマリヤに告げられたのです(1:32)。神々(実際にはいないのであるが)の最高位におられる神、「いと高き方」の子なのです。いと高き神は「天と地を造られた方」です(創世記14:19)。神の救いの歴史が実現する時、「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え」ます(ダニエル4:17)。そして、そのために「いと高き神が自分たちを贖う方」となられたのです(詩篇78:35)。救い主誕生のことは野宿している羊飼いたちに知らされ、天の軍勢の賛美がありました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ2:14)。クリスマスは、救い主イエスにおいて、いと高き天と地がつながった瞬間でした。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」とイエス・キリストをお迎えした地に属するあなたは、いと高き天とつながって、天に属する者となったのです。

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