オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

永遠のいのちのことば

2012-08-19 00:00:00 | 礼拝説教
2012年8月19日 主日礼拝(ヨハネ6:63、68)岡田邦夫


 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」ヨハネ福音書6:63

 「キリスト教をテーマにした本がベストセラーになり『ケセン語訳聖書』という異色の聖書も話題を集めた。雑誌でも、聖書やキリスト教をテーマにした特集が目につく。近代化された社会の中で、近代の根っこにあるキリスト教を『わかっていない度』で測るとすれば、おそらくトップだという日本(『ふしぎなキリスト教』より)。その日本人の心にどんな変化が起こっているのだろう」(百万人の福音8月号の特集「聖書ブーム?!をどう見るか」より)。
 私たちとしてはもっと聖書のことが多くの人にわかってほしいと願います。という自分自身もどれだけ聖書というものがわかっているかどうか、問われるところです。ロンドンオリンピックの日本の選手に手渡された二冊の本がありました。一冊は宮本武蔵の著にちなんだ「五輪の書」、もう一冊は過去のメダリストの言葉を集めた「メダリスト・バイブル」でした。このバイブルは一般化して使用されています。本家本元のバイブルを良く知らないまま使われているのは、私たちとしては残念です。
 バイブルというのは「書」という意味です。書の中の書という意味で「聖書」・ホーリーバイブルです。第二テモテへの手紙ではこう定義しています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(3:16)。新共同訳ですと、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」聖書は書かれたものです。しかし、単に書かれたものなら、思想書のようなもので終わってしまうでしょうが、神の霊の導きの下に書かれたものですから、書かれた以上のものを持っています。文字は人を殺し、霊は人を生かすという面を持っています。
 イエス・キリストはこう言われました(ヨハネ6:63)。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。この福音書の著者はヨハネです。しかし、神の霊の導きの下に書かれたのですから、まことの著者は神です。イエス・キリストです。そして、著者というよりは、語り手なのです。私たちは個人的な手紙なら、差出人の顔が浮かんできます。気持ちが伝わってきます。聖書は語り手である神を意識せずに、読んだり、学んだりも出来るでしょう。しかし、聖霊によって、語り手であるイエス・キリストを意識し、語り手の思いのこもった聖書、すなわち、御言葉を「聞く」のです。そこで、イエス・キリストの命が精神に、心に、魂に入ってくるのです。
 最初は聖書の言葉を正しく読み取ることが必要かも知れません。しかし、さらにそこから生ける神の言葉を聞き取る必要があります。必要があるというよりは、聖霊が神と私の命の絆に導いてくださるのです。その時、ペテロはこう答えました(6:68-69)。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。私たちはさまざまな良い言葉を聞いて、それが人生の糧となり、血と肉となっていきます。聖書も時には良い言葉として人生の糧となり、血と肉となっていくという面も持っています。しかし、さらに神からのものとして聞いた言葉は「永遠のいのちのことば」なのです。永遠の糧となり、永遠の命となっていくのです。神の口から出る一つ一つの言葉で永遠に生きるのです。クリスチャンになって、生ける神の言葉を聞くことをしないというのはもったいない話です。生けるみ言葉が聞けるという最大の特権の活用したいものです。

 私は上野の映画館で声をあげて泣き出したいほど、感動した映画がありました。高熱のために見えなくなり、聞こえなくなり、しゃべれなくなったヘレンケラーが指文字で会話が出来るようになったというその実話を映画化した「奇跡の人」でした。モノクロの1962年製作のものです。もとの英語は“The Miracle Worker”、奇跡の働き人で、しつけをし、言葉を教えたサリバン先生を奇跡の人としてタイトルにしているのです。三重苦ですから、臭いと皮膚感覚でしかわからないのですから、いくら指文字で言葉を教えても、まったくわかってもらえません。サリバン先生は嘆きます。しかし、いざこざがあって、ヘレンが庭に飛び出し、怒ったように井戸のポンプで水をだしていた時に、高熱で三重苦になる前に覚えた「水(ウオーター)」という言葉を思い出したのです。この冷たいものは水という名前なのだということが、その時、わかったのです。水も土も人も、触れるものには名前があるのだと認識できたのです。感動の場面です。私は嗚咽しそうになっていました。そして、ラスト・シーン。夜、サリバンが椅子に座って物思いにふけっていると、ヘレンが部屋に入ってきて、サリバンのもとに行き、手で顔にふれ、静かに抱きつきます。サリバンは指文字で言います。「アイ・ラブ・ヘレン」。物に言葉あることがわかっただけでなく、言葉によって抽象的概念も、愛という素晴らしいものもわかったのです。そのラストシーンに流れていた曲が、聖歌196の編曲したものでした。私にははっきりそう聞こえ、感動はなお一層のものがありました。聖歌196「妙(たえ)なる命の」(Wonderful Words of Lif)は聖書をテーマにした賛美歌です。.讃美歌は501番。

①妙(たえ)なる命の御(み)言(こと)葉(ば)あり
 その麗(うるわ)しさは 類(たぐい)あらじ
 命に満ち  まことに富む
 (くり返し) 聖書は妙なる命の文(ふみ)
     聖書は奇(くす)しき命の文
②御子なる主イェスの  御言葉こそ
  罪咎(とが)清むる  力なれや
  世(よ)人(びと)聞きて  救い受けよ  
③御言葉頼りに  赦しを得よ
  御言葉受け入れ  安きを得よ
 他にあらじ  この御救い

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