2015年1月25日 主日礼拝(マタイ福音書6:25-34)岡田邦夫
「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」マタイ福音書6:30
星野富弘さんの詩を見てみましょう。頸髄(けいずい)を損傷(そんしよう)し、手足の自由を全く失ってしまったのですが、口に筆をくわえて詩画を描いておられます。
手と足が不自由になって
歩けなくなりました
土を掘ることも
スキーをすることも
出来なくなりました
でも神様ありがとう
あなたが持たせてくれた
たった十グラムの筆ですが
それで私は花を咲かせたり
雪を降らせたり出来るのです
神様ほんとにありがとう
ここには強がりも無理もありません。神の恵みに気付き、思いと考えが否定から肯定にひっくり返されています。素晴らしい恵みの発見です。その神の恵みとは何でしょう。山の上でイエス・キリストが教えられた、空の鳥、野の花の話がそれを表していると思います。
◇神の養い
自分のいのちのことで、何を食べようか、からだのことで、何を着ようかと思い悩むな。いのちは食物より、からだは着物よりたいせつなものでないか。空の鳥を見よ、種蒔き、刈入れ、蔵入れをしなが、天の父が養っている。あなたがたは鳥よりもすぐれたものではないか(マタイ6:25-26要約)。命を与えられたのは創造の神、天の父です。その命を天の父が養ってくださるのは当然です。天の父を信頼すれば、思い悩みも心配もいらなくなるでしょう。更に言うなら、命があること、生きていられること自体が感謝なことなのです。クリスチャン詩人の八木重吉は「おんちちうえさま おんちちうえさまと唱うるなり」と素朴な詩を書いています。そのように、思い煩いの「思い」を縛っている「煩い」を除けて、思いだけを素朴に命の源である天の父に向けましょう。そして、天の父の養いに感謝出来ますなら、さいわいです。
◇神の装い
人生というのは食べることは基本的に欠かせないのですが、「装う」ということも欠かせないことです。震災で被災された高齢者の方が仮設住宅で暮らすようになる時、心得ておかないといけない生活不活発病というのがあると聞きました。生活不活発病は文字通り、生活が不活発になることで全身の機能が低下することです。被災して、畑や海や店などに行けなくなると外出しない。狭い部屋だから、掃除もあまりしないで、動かないで、テレビを見てるだけ。それで歩かない、動かない。そうしてると本当に歩けなくなり、動けなくなり、内蔵も弱るというのです。対策は十分あって、生活を活発化させればいいとのことです。毎日、掃除をするとか、着替えて散歩に出るとか、化粧して友達に会って話したり、趣味のことをしたり、何でもいいそうです。実際にそうすると元気になるそうです。ここの聖書の言葉からいうなら、日常生活の「装い」だと思います。
ファッションにも色々ありますように、人生の装いもそれぞれです。成功や名声という装いだったり、家族や友人との団らんという装いだったり、誰かを助けたいという使命という装いだったり、自分の身の丈にあった装いがあるでしょう。さらにイエス・キリストは神の装いについてこう言われました。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(6:28-30)。ソロモン王は神殿は7年、宮殿は13年、合計20年かけて、贅(ぜい)を尽くして建設しました。建物は絢爛豪華(けんらんごうか)、生活は金銀財宝があふれ、ソロモンは栄華を窮めていたのです。しかし、そのソロモンは「このような花(野のゆり)の一つほどにも着飾ってはいませんでした」。野のゆりを「神はこれほどに装ってくださ」っていると言われるのです。
神の装いについて、創世記に神が天地を創造された時のみ思いが述べられています。「神がお造りになたすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった」(1:31)。天地の装いがすべて良かったのです。この世界観にたてば、人生を肯定して生きられるのです。創造の神を信じる時、苦労の多い人生だったとしても、神が祝福という装いをしてくださることを知って、生まれてきて良かったと言えるのです(1:28)。
伝道者の書も神の装いについて、述べています。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と時がありを列挙し、こう言います。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(3:1-2、11)。造花なら一つの美だけですが、生きた花はつぼみのかわいらしさ、咲きかけの初々しさ、咲いた時の満ちたりさ、種になっていく渋さ、その時々の美をもって、神が装っていてくださるのです。人生の時々を神は美しく装ってくださるのだと信じましょう。「若い人の栄えはその力、老人の美しさはそのしらがである」という知恵の言葉があります(箴言20:29口語)。あなたの人生の四季、それぞれの季節に彩りを与えておられるのです。きっと、それが創造者の楽しみではないかと私は想像するのです。
◇神の装いを新たに
さらにもう一歩踏み込んで、主はこう言われます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:32ー34新共同訳)。最後に、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさいと主は勧めるのです。私たち人間は神に対しても、人に対しても罪を犯し、この美しく装われた世界を曇らせ、汚してしまったのです。過去の歴史を見ても、現在の世界を見ても、自らの心も行いを見ても、現実は人は罪深いものだと思うでしょう。イエス・キリストはこの世界に来られ、十字架の苦難を受け、私たちの罪を負われたのです。「そのため、彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」姿になられたのです(イザヤ書53:2)。聖なる方、絶対的に美しい神の御子が人となり、しもべとなり、罪人の一人に数えられ、慕うべき美しさもない姿になられたのです。その御子の犠牲によって、私たちの醜い罪がきよめられ、義とされ、新しく造られ、神の国の恵みの支配に入れていただいたのです。
そして、父なる神は最高の装いを信じる者にしてくださいます。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:26-27)。なんと素晴らしい神の装いでしょうか。
「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」マタイ福音書6:30
星野富弘さんの詩を見てみましょう。頸髄(けいずい)を損傷(そんしよう)し、手足の自由を全く失ってしまったのですが、口に筆をくわえて詩画を描いておられます。
手と足が不自由になって
歩けなくなりました
土を掘ることも
スキーをすることも
出来なくなりました
でも神様ありがとう
あなたが持たせてくれた
たった十グラムの筆ですが
それで私は花を咲かせたり
雪を降らせたり出来るのです
神様ほんとにありがとう
ここには強がりも無理もありません。神の恵みに気付き、思いと考えが否定から肯定にひっくり返されています。素晴らしい恵みの発見です。その神の恵みとは何でしょう。山の上でイエス・キリストが教えられた、空の鳥、野の花の話がそれを表していると思います。
◇神の養い
自分のいのちのことで、何を食べようか、からだのことで、何を着ようかと思い悩むな。いのちは食物より、からだは着物よりたいせつなものでないか。空の鳥を見よ、種蒔き、刈入れ、蔵入れをしなが、天の父が養っている。あなたがたは鳥よりもすぐれたものではないか(マタイ6:25-26要約)。命を与えられたのは創造の神、天の父です。その命を天の父が養ってくださるのは当然です。天の父を信頼すれば、思い悩みも心配もいらなくなるでしょう。更に言うなら、命があること、生きていられること自体が感謝なことなのです。クリスチャン詩人の八木重吉は「おんちちうえさま おんちちうえさまと唱うるなり」と素朴な詩を書いています。そのように、思い煩いの「思い」を縛っている「煩い」を除けて、思いだけを素朴に命の源である天の父に向けましょう。そして、天の父の養いに感謝出来ますなら、さいわいです。
◇神の装い
人生というのは食べることは基本的に欠かせないのですが、「装う」ということも欠かせないことです。震災で被災された高齢者の方が仮設住宅で暮らすようになる時、心得ておかないといけない生活不活発病というのがあると聞きました。生活不活発病は文字通り、生活が不活発になることで全身の機能が低下することです。被災して、畑や海や店などに行けなくなると外出しない。狭い部屋だから、掃除もあまりしないで、動かないで、テレビを見てるだけ。それで歩かない、動かない。そうしてると本当に歩けなくなり、動けなくなり、内蔵も弱るというのです。対策は十分あって、生活を活発化させればいいとのことです。毎日、掃除をするとか、着替えて散歩に出るとか、化粧して友達に会って話したり、趣味のことをしたり、何でもいいそうです。実際にそうすると元気になるそうです。ここの聖書の言葉からいうなら、日常生活の「装い」だと思います。
ファッションにも色々ありますように、人生の装いもそれぞれです。成功や名声という装いだったり、家族や友人との団らんという装いだったり、誰かを助けたいという使命という装いだったり、自分の身の丈にあった装いがあるでしょう。さらにイエス・キリストは神の装いについてこう言われました。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(6:28-30)。ソロモン王は神殿は7年、宮殿は13年、合計20年かけて、贅(ぜい)を尽くして建設しました。建物は絢爛豪華(けんらんごうか)、生活は金銀財宝があふれ、ソロモンは栄華を窮めていたのです。しかし、そのソロモンは「このような花(野のゆり)の一つほどにも着飾ってはいませんでした」。野のゆりを「神はこれほどに装ってくださ」っていると言われるのです。
神の装いについて、創世記に神が天地を創造された時のみ思いが述べられています。「神がお造りになたすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった」(1:31)。天地の装いがすべて良かったのです。この世界観にたてば、人生を肯定して生きられるのです。創造の神を信じる時、苦労の多い人生だったとしても、神が祝福という装いをしてくださることを知って、生まれてきて良かったと言えるのです(1:28)。
伝道者の書も神の装いについて、述べています。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と時がありを列挙し、こう言います。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(3:1-2、11)。造花なら一つの美だけですが、生きた花はつぼみのかわいらしさ、咲きかけの初々しさ、咲いた時の満ちたりさ、種になっていく渋さ、その時々の美をもって、神が装っていてくださるのです。人生の時々を神は美しく装ってくださるのだと信じましょう。「若い人の栄えはその力、老人の美しさはそのしらがである」という知恵の言葉があります(箴言20:29口語)。あなたの人生の四季、それぞれの季節に彩りを与えておられるのです。きっと、それが創造者の楽しみではないかと私は想像するのです。
◇神の装いを新たに
さらにもう一歩踏み込んで、主はこう言われます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:32ー34新共同訳)。最後に、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさいと主は勧めるのです。私たち人間は神に対しても、人に対しても罪を犯し、この美しく装われた世界を曇らせ、汚してしまったのです。過去の歴史を見ても、現在の世界を見ても、自らの心も行いを見ても、現実は人は罪深いものだと思うでしょう。イエス・キリストはこの世界に来られ、十字架の苦難を受け、私たちの罪を負われたのです。「そのため、彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」姿になられたのです(イザヤ書53:2)。聖なる方、絶対的に美しい神の御子が人となり、しもべとなり、罪人の一人に数えられ、慕うべき美しさもない姿になられたのです。その御子の犠牲によって、私たちの醜い罪がきよめられ、義とされ、新しく造られ、神の国の恵みの支配に入れていただいたのです。
そして、父なる神は最高の装いを信じる者にしてくださいます。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:26-27)。なんと素晴らしい神の装いでしょうか。