2010年9月26日 伝道礼拝(ヨナ書3:1~4:11)岡田邦夫
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。」ヨナ書4:10-11
とろみなどつける時に使う片栗粉ですが、買った袋にはなぜか、ばれいしょのでんぷん100%と記されています。本来の片栗粉は原野に自生するユリ科のカタクリの球根からとれる上質なでんぷんです。カタクリは花も葉も茎も食べられます。しかし、カタクリは早春のみ地上部を展開し、5月には葉や茎は枯れてしまって、あと休眠状態で過ごし、しかも種子が発芽してから開花まで7~10年を要するというおくゆかしい植物なのです。昔は落葉樹林のある所に良くあったのですが、近年、乱獲、盗掘、開発などで減少したため、多くはじゃがいものでんぷんが代用されるようになってしまったのです。もったいない話です。
もったいないといえば、ノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが、環境を守る運動の世界共通語として、「MOTTAINAI」を広めることを提唱しました。漢字は「勿体ない」と書きます。勿体は本来、物体と書き、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表しているとも言われています(ほかの意味もありますが)。
聖書において、勿体ないの意味合いをもつ、人間の根本的な問題に取り組んでいる書がヨナ書という預言書です。
◇命を粗末にしていいのか
今日、お話ししますヨナという預言者は自分が預言者であることがいやになり、自分の人生がいやになり、人生の逃避行をした人です。そもそも、イスラエル人というのは神に選ばれた民族であると自負し、聖なる民であろうとするために、異邦人とは一線を引き、極端に毛嫌いしていました。ヨナもそのひとり。しかし、神は異邦人の国、アッシリヤ帝国の首都ニネベが滅びようとしているから、それを救うために行けと命じられたのです。彼にとってはとても嫌な仕事です。自分の人生をそれに費やすのはもったいないと思いました。神の命令は絶対だと頭で分かっていても、気持ちはついて行けないのです。そして、「神のみ顔を避ける」まで、思い詰めてしまいます。そうなれば、からだはニネベとは反対の方に向かっていました。
気付いたら、ヨッパの港から、タルシシュ行きの船に乗っていました。タルシシュは地中海の西の端スペインにある町。ヨナはみ顔を避けて、地の果てに行こうとしていたのでしょうか。ところがそうはいきません。どこに行こうと、地の果てでも、船底に隠れていても、神はそこにおられるのです。神は地中海に嵐を起こします。船は暴風にほんろうされ、難破しそうで、船員たちはもう生きた心地がしません。ヨナは自分のせいでこうなったのだから、人柱として、海に投げ込んでくれと言います。ヨナが海に投げ込まれると、怒り狂う海は静かになり、船上の人たちは助かりました。
◇命が滅ぼされていいのか
海の真中にも神はおられ、大きな魚を用意し、ヨナを飲み込ませ、助けます。神の特別な計らいです。魚の腹の中に、消化もされずに、三日間もいるのですが、その時、彼は神を思い出し、回心するのです。そして、神は彼の叫びを聞いて、巨大魚に命じますと、魚は腹の異物、ヨナを陸地に吐き出したのです。無に命じて有を呼び出した神が魚に命じたのです。これも、特別な計らいでした。神はヨナを死なすのはもったいないと思われたのでしょう。
陸に上がったヨナに、神は再び命じます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」(ヨナ3:2)。もう、み顔をさけません。預言者として、彼方のニネベに向かって出立。旅を続け、到着すると、そこには帝国にふさわしい、堂々とした都市が築かれていました。預言者は一日中歩き回って、叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と告げます(3:4)。そのメッセージは届きます。ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで悔い改めたのです。それが王の耳に入り、王自身、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰をかぶる悔い改めのパフォーマンスを示し、民に布告します。「…ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない」(3:8-9)。聖書はその結果をこう報告しています。「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった」(3:10)。
参考までに…ニネベ遺跡には王城跡が二つあり、その一つは「ナビー・ユーノス」(預言者ヨナ)と昔から呼ばれていて、ヨナの墓という伝説もあり、現地の人々には今も神聖な場所なのだそうです。
◇命を惜しまないでおられようか
ところがです。神がアッシリア人への災いを思い直されたことは、ヨナには不愉快で、その不服を神に訴えます。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」と迫るほど、その訴えは尋常ではありません(4:3)。そして、ヨナは町に神の裁きか、何かが起こることを期待し、町の外の東方に仮小屋を作って待ちます。そこで、神は粋な仕方で答えられます。
神はヨナの不機嫌をなおそうと、とうごまの木を生えさせ、生い茂らせ、木陰を作りました。ヨナは上機嫌です。しかし、翌日の夜明け、一匹の虫にとうごまをかませたので、木は枯れてしまいました。日が昇れば、灼熱の太陽がヨナの頭に照りつけ、東からの熱風が襲ってきて、ヨナはぐったりとなり、死を願って、また言います。「私は生きているより死んだほうがましだ」(4:8)。そこで、神はヨナに問い、ヨナは答えます。「お前ははとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」(4:9新共同訳)。そこで、愛にあふれた神の言葉が返ってきます。
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」(4:10-11)。
神は惜しむ神です。右も左もわきまえない人間でも、家畜でも、命を惜しむ神です。命を創造し、命を吹き込んだものを惜しむ神です。社会に貢献した人が亡くなると惜しい人を亡くしたと評します。しかし、神にとっては、惜しくない人など、この世に一人もいないのです。イエス・キリストにとって、あなたは「もったいない人」なのです。罪深い私たちですが、その私たちが罪の裁きを受け、滅んでしまうのを惜しみ、その「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(1テモテ2:4)。右も左もわきまえないというのはヨナもイスラエルも指すでしょう。私をも指しているでしょう。「わたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(4:11口語訳)。わたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々のいるこの三田の町を、惜しまないでいられようかとおっしゃっているに違いありません。罪深く、真理をわきまえないあなただが、かけがえのない大切な私の命、惜しまないでいられようかと迫っているのです。
◇犠牲を惜しまないでおられようか
しかし、神がただひとり、惜しまなかった存在がいます。イエス・キリストです。神は私たちを惜しむからこそ、御子(みこ)を世に遣わされ、私たち、わきまえない罪人を滅びから救うため、身代わりに十字架で処刑されました。その御子の贖いの犠牲によって、それを信じる信仰によって救われる真理の道が開かれました。聖書はたいへんなことを言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ人への手紙8:32)。私たちを惜しむ神は、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されて、救ってくださったのです。御子を犠牲にすることをもったいないとは思われなかったのです。何という自己犠牲の愛でしょうか。それが神のことですから、私たちにはとうてい計り知れない愛です。あなたはそんなにも惜しまれているのです。もったいない存在なのです。それに答えて、惜しみなく神を信じ、惜しみなく神を望み、惜しみなく神を愛しましょう。
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。」ヨナ書4:10-11
とろみなどつける時に使う片栗粉ですが、買った袋にはなぜか、ばれいしょのでんぷん100%と記されています。本来の片栗粉は原野に自生するユリ科のカタクリの球根からとれる上質なでんぷんです。カタクリは花も葉も茎も食べられます。しかし、カタクリは早春のみ地上部を展開し、5月には葉や茎は枯れてしまって、あと休眠状態で過ごし、しかも種子が発芽してから開花まで7~10年を要するというおくゆかしい植物なのです。昔は落葉樹林のある所に良くあったのですが、近年、乱獲、盗掘、開発などで減少したため、多くはじゃがいものでんぷんが代用されるようになってしまったのです。もったいない話です。
もったいないといえば、ノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが、環境を守る運動の世界共通語として、「MOTTAINAI」を広めることを提唱しました。漢字は「勿体ない」と書きます。勿体は本来、物体と書き、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表しているとも言われています(ほかの意味もありますが)。
聖書において、勿体ないの意味合いをもつ、人間の根本的な問題に取り組んでいる書がヨナ書という預言書です。
◇命を粗末にしていいのか
今日、お話ししますヨナという預言者は自分が預言者であることがいやになり、自分の人生がいやになり、人生の逃避行をした人です。そもそも、イスラエル人というのは神に選ばれた民族であると自負し、聖なる民であろうとするために、異邦人とは一線を引き、極端に毛嫌いしていました。ヨナもそのひとり。しかし、神は異邦人の国、アッシリヤ帝国の首都ニネベが滅びようとしているから、それを救うために行けと命じられたのです。彼にとってはとても嫌な仕事です。自分の人生をそれに費やすのはもったいないと思いました。神の命令は絶対だと頭で分かっていても、気持ちはついて行けないのです。そして、「神のみ顔を避ける」まで、思い詰めてしまいます。そうなれば、からだはニネベとは反対の方に向かっていました。
気付いたら、ヨッパの港から、タルシシュ行きの船に乗っていました。タルシシュは地中海の西の端スペインにある町。ヨナはみ顔を避けて、地の果てに行こうとしていたのでしょうか。ところがそうはいきません。どこに行こうと、地の果てでも、船底に隠れていても、神はそこにおられるのです。神は地中海に嵐を起こします。船は暴風にほんろうされ、難破しそうで、船員たちはもう生きた心地がしません。ヨナは自分のせいでこうなったのだから、人柱として、海に投げ込んでくれと言います。ヨナが海に投げ込まれると、怒り狂う海は静かになり、船上の人たちは助かりました。
◇命が滅ぼされていいのか
海の真中にも神はおられ、大きな魚を用意し、ヨナを飲み込ませ、助けます。神の特別な計らいです。魚の腹の中に、消化もされずに、三日間もいるのですが、その時、彼は神を思い出し、回心するのです。そして、神は彼の叫びを聞いて、巨大魚に命じますと、魚は腹の異物、ヨナを陸地に吐き出したのです。無に命じて有を呼び出した神が魚に命じたのです。これも、特別な計らいでした。神はヨナを死なすのはもったいないと思われたのでしょう。
陸に上がったヨナに、神は再び命じます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」(ヨナ3:2)。もう、み顔をさけません。預言者として、彼方のニネベに向かって出立。旅を続け、到着すると、そこには帝国にふさわしい、堂々とした都市が築かれていました。預言者は一日中歩き回って、叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と告げます(3:4)。そのメッセージは届きます。ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで悔い改めたのです。それが王の耳に入り、王自身、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰をかぶる悔い改めのパフォーマンスを示し、民に布告します。「…ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない」(3:8-9)。聖書はその結果をこう報告しています。「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった」(3:10)。
参考までに…ニネベ遺跡には王城跡が二つあり、その一つは「ナビー・ユーノス」(預言者ヨナ)と昔から呼ばれていて、ヨナの墓という伝説もあり、現地の人々には今も神聖な場所なのだそうです。
◇命を惜しまないでおられようか
ところがです。神がアッシリア人への災いを思い直されたことは、ヨナには不愉快で、その不服を神に訴えます。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」と迫るほど、その訴えは尋常ではありません(4:3)。そして、ヨナは町に神の裁きか、何かが起こることを期待し、町の外の東方に仮小屋を作って待ちます。そこで、神は粋な仕方で答えられます。
神はヨナの不機嫌をなおそうと、とうごまの木を生えさせ、生い茂らせ、木陰を作りました。ヨナは上機嫌です。しかし、翌日の夜明け、一匹の虫にとうごまをかませたので、木は枯れてしまいました。日が昇れば、灼熱の太陽がヨナの頭に照りつけ、東からの熱風が襲ってきて、ヨナはぐったりとなり、死を願って、また言います。「私は生きているより死んだほうがましだ」(4:8)。そこで、神はヨナに問い、ヨナは答えます。「お前ははとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」(4:9新共同訳)。そこで、愛にあふれた神の言葉が返ってきます。
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」(4:10-11)。
神は惜しむ神です。右も左もわきまえない人間でも、家畜でも、命を惜しむ神です。命を創造し、命を吹き込んだものを惜しむ神です。社会に貢献した人が亡くなると惜しい人を亡くしたと評します。しかし、神にとっては、惜しくない人など、この世に一人もいないのです。イエス・キリストにとって、あなたは「もったいない人」なのです。罪深い私たちですが、その私たちが罪の裁きを受け、滅んでしまうのを惜しみ、その「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(1テモテ2:4)。右も左もわきまえないというのはヨナもイスラエルも指すでしょう。私をも指しているでしょう。「わたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(4:11口語訳)。わたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々のいるこの三田の町を、惜しまないでいられようかとおっしゃっているに違いありません。罪深く、真理をわきまえないあなただが、かけがえのない大切な私の命、惜しまないでいられようかと迫っているのです。
◇犠牲を惜しまないでおられようか
しかし、神がただひとり、惜しまなかった存在がいます。イエス・キリストです。神は私たちを惜しむからこそ、御子(みこ)を世に遣わされ、私たち、わきまえない罪人を滅びから救うため、身代わりに十字架で処刑されました。その御子の贖いの犠牲によって、それを信じる信仰によって救われる真理の道が開かれました。聖書はたいへんなことを言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ人への手紙8:32)。私たちを惜しむ神は、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されて、救ってくださったのです。御子を犠牲にすることをもったいないとは思われなかったのです。何という自己犠牲の愛でしょうか。それが神のことですから、私たちにはとうてい計り知れない愛です。あなたはそんなにも惜しまれているのです。もったいない存在なのです。それに答えて、惜しみなく神を信じ、惜しみなく神を望み、惜しみなく神を愛しましょう。