オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

美しい生き方

2017-05-28 00:00:00 | 礼拝説教
2017年5月28日 伝道礼拝(伝道者の書3:11、マタイ福音書5:8)岡田邦夫

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(伝道者の書3:11、マタイ福音書5:8)。

美しいものに人の心はなごみます。美しい自然や美しい作品など、様々なものが人生を豊かにしています。田植えの季節になりますと、耕した田に水をはり、良くならしてから、苗を隅から隅まで植えていきます。見た目にも真直ぐにきれいに植わっています。畔もきれいに草が刈られています。実にこの景色は良いものです。農家の人は多くの収穫を目指して、効率よくやっているだけではなく、きれいにしようという美意識が伴っているのではないかと、私は思います。様々な職種の仕事も同様にして行われているかも知れません。
 茶道、華道、剣道、柔道など、道がつくものはそれぞれの「型」があり、それが人の精神を表すものであり、それを通して、人が美しく生きる生き方を求めるものであると思います。

◇神の時にかなった美しさ
 究極の美を追求するものの一つが盆栽です。皇居の大道(おおみち)庭園には5百点もの盆栽が育てられ、樹齢6百年と伝わる名品もあると言います。国賓を出迎える時、宮殿を飾るひときわ格式の高い盆栽を飾るとのこと。そこは江戸城のあった所、樹齢6百年のものは徳川時代からもの、ずっと盆で生き続けてきたのですから、怖れの念さえ感じるでしょう。
 自然を盆栽の中に取り込む、自然が一番いい、自然を近く感じられるものほど美しいと手入れをし、楽しむというものです。自然を感じるのは時を感じることでもあります。長い時の流れと今の一瞬の時を同時に感じるのです。そのような美を聖書はこう端的に述べています。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
…神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:1、11)。
 この頃、「かわいい」がよく使われます。赤ちゃんや子供や若い女性だけでなく、年齢に関係なく、高齢者をもかわいいとほめます。それは善意に解釈したいものです。どの年齢でも時にかなって美しいと思えるなら、幸せです。

◇神の目にかなった美しさ
純粋な美しい心境を歌った、八木重吉という人がいました。彼は東京高等師範学校在学中の1919年(大正8)洗礼を受けました。敬虔なクリスチャンで、英語教師となってから詩作を始めました。美を追求した詩があります。その素朴な信仰に私はたいへん心惹かれ、あこがれました。
ねがい
きれいな気持ちでいよう
花のような気持でいよう
報いをもとめまい
いちばんうつくしくなっていよう
   花
花はなぜ美しいのか
ひとすじの気持ちで咲いているからだ
このような詩もありました。加えておきましょう。
さて
あかんぼは
なぜに あん あん あん あん なくんだろうか
  ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつっこくよびな
 彼は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」で始まる「山の上の教え」を素直に生きようとしたのではないかと思います。その教えは信仰者が純粋に生きる生き方を教えているからです。特にマタイ5章8節がそれです。
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」。
 神はこの目で見えませんが澄んだ心の目で見るのです。この清さは関係における清さです。神との関係もそうですが、人との関係もそうです。八木重吉の詩ではこう歌われています。
   ねがい
  人と人のあいだを 美しくみよう
わたしと人とのあいだを うつくしくみよう
疲れてはならない
 先日、天に召された渡辺和子さんが自分の体験したことをありのままに述べていました。修道院に入ってのこと、修道といっても、「ストレスを発散する場もあったのだが、一時、修道院という狭い囲いの中で共同生活、人間関係に、“出口なし”の窒息感と、他人への不満を抱いたことがあった。そんな時に出会った一つの詩がこれだった。私は『疲れていた』。それは努力した結果の疲れではなく、他人が自分の思うようになってくれないことへの、焦りの疲れであり、不平不満からの疲れであったことに気づかされた。
私は人と人の間、自分と人との間を美しく見る努力をしていなかったのだ。変わらなければならないのは「自分」だった。心の疲れは自分の心の向きを自己中心から、他人への思いやりに180度転換させることで、癒される時がある。」と記しています(「忘れかけていた大切なこと」抜粋))。

 渡辺師がいうように、私たちの心はなかなか美しくはなれない現実があります。人をねたみ、嫉み、恨み、憎しみ…と、人との間を醜くしています。神との間もそうです。イエス・キリストは私たちを「心のきよい者」にするために、醜さ、すなわち、罪を十字架において、担われ、処分されたのでした。十字架上のイエスは「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、…顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。…まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。…彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれ、…われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:2-5抜粋・口語訳)。
 私たちの醜さ、汚れ、罪を担って、身代わりとなり、神の裁きを受けられたのですが、ご自身はきよいお心でした。十字架につけた者たちを呪うことをせず、むしろ、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなして祈られたのです(ルカ23:34)。実に愛に満ちた、美しいお心です。主を信じる者の心をきよめ、主の愛のお心を恵みとしていただくのです。

イスラエルのネタニヤ市で2016年6月7日、杉原千畝(ちうね)の名を冠した通りができました。彼は日本人外交官でしたが、第二次世界大戦当時、ナチスドイツの迫害から逃れた約6千人のユダヤ人にビザを発給したことで知られています。同市には杉原氏に助けられたユダヤ人が多く移り住んだからだといいます。ナチスから逃れたユダヤ人難民たちがカウナスの日本領事館に通過ビザを求め押し寄せました。外務省は三国同盟があるので許可しなかったので、杉原領事代理は悩み苦しみました。しかし、彼はハリスト正教会のクリスチャン。この状況では外務省に背いてでも、助けようと人道的判断を下したのです。妻の幸子さんに「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と決意を述べていたといいます。
二人はイエス・キリストから与えられた心で、信仰者として、人として、美しい道を選び、命を懸けたのです。これは世間に認められた美談です。私たちは認められようが認められまいがみ前に美しく生きようとする、キリスト道というのがあるのです。そして、何よりも美談は主の十字架の愛です。私たちはそれに感銘して、「神とわたしとのあいだを美しくみよう」と美しく生きる道に進むのです。


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