未だに理解できないのが、北一輝である。
私が日本の近代史、とりわけ昭和史を自分なりに見直してみようと考えたのは、病気療養中の20代半ばであった。学校の歴史の授業だけでは、どうしても理解しがたいことが多々あった。
私には軍部が独走して、日本を戦争に巻き込んだというシナリオが、どうも納得がいかなかったからだ。だが、日本の学校教育は、マルクスかぶれが主流を占める日教組の強い影響があり、左派的な偏向教育が正論としてまかり通っていた。
一方、現場の教師のなかには、反対の声こそ上げないが、日教組の推し進める偏向歴史教育に無言で従わぬ人たちが少なからずいた。幸いにして、私はそのような歴史教師たちに恵まれていたので、自然と教科書の教える歴史に疑問を持つようになった。
幸か不幸か、私は20代の大半を難病のために自宅療養で過ごしており、勉強する時間が、衰えた体力が許す限りにおいて自由に出来た。あの頃は、よく地元の図書館にこもって、様々な本を読み漁っていたものだ。
だが、どうにもこうにも理解しがたい人物が幾人もいた。彼らが歴史のなかで、どのような役割を担っていたのか、それが良く分からない。その代表的な人物が、昭和11年2月26日に起きた軍部によるクーデターの背後に居たとされる北一輝である。
いわゆる2、26事件において、首謀者として死刑にされた人物であり、強烈な国家主義者との評がある一方で、天皇制に対する痛烈な批判から革命者との評を得ている人物でもある。
20代の頃、興味を持って彼の処女作とされる「国体論及び純正社会主義」やシナへ渡航中に書いたとされる「日本改造試案大綱」に目を通したことがあるが、あっさりと挫折した。漢文調の華麗な文体だと云いたいところだが反復が多すぎて、返って乱雑な印象を否めない。その攻撃的な主張は鮮烈だが、論理の破綻を無理やり押し切るがごとき印象があり、読むのが苦痛であった。
あれから30年近くがたったので、11月に改めて再読に挑んだが、やはり完読には挫折した。20代の頃は読むのが苦痛であったが、50を過ぎるとその稚拙さに腹が立つので、読むのを中断してしまった。
ただ、なんとなく挫折感というか、北一輝の正体をつかめずにいることへの不安感は残った。そこで、改めて手に取ったのが松本清張が書き記した表題の書であった。これが大正解であった。
私なりの結論から言えば、勉強熱心ながら偏り過ぎの検証不足で、思い込み先行の若者の熱情の迸りが、初期の著作であり、その情熱からシナの革命騒ぎに便乗したままの勢いで書いたのが「日本改造試案大綱」であった。
率直に云って、彼は社会主義者でもなければ、革命者でもない。国体思想は持っていたようだが、むしろ政治ゴロであった。軍の退役者やヤクザ崩れを配下に、政界に睨みを効かせようと、ハッタリをかます右翼の大物志望者であった。
断じて2,26事件の首謀者ではない。むしろ自分には若手将校の暴走を止められると宣伝して、財閥から金を引き出そうとしていたフィクサー気取りの政治業者である。だから逮捕された際も、自分が死刑になるとは全く思っていなかった。
そりゃ、そうだと思う。軍の若手士官たちは、むしろ北を敬遠していたのが実際であろう。ところが、軍内部から起きた事件としてではなく、外部からの策謀により若手将校が煽動させられた事件として処理をしようとした政府の意向が、北を死刑台に送り込んだ。
結果、未熟な論文と、事件屋に過ぎない右翼の大物きどりは、軍に多大な影響を与えた思想家として、祭り上げられるに至った。更に不幸なことに、北は神格化された天皇制に堂々噛みついた実績をもって、戦後左翼勢力からも神聖視されたがゆえに、実像以上に過大に評価されてしまったのだと思う。
表題の本は、あの読みにくい北の著作に目を通し、周辺資料にも目を配り、実際の北の実像をえぐり出した、社会派作家の大御所である松本清張の真価が発揮されたものだと思う。決して読んで楽しいものではないが、その透徹した視線が描く北一輝の実像は、実に読みごたえがありました。
最後に愚痴をば・・・今年一番疲れた読書でした。もう読まないぞ、北の著作は。