ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

蠅の王 ウィリアム・ゴールディング

2011-06-20 13:05:00 | 

私は子供の権利とか自由とかを、やたらと主張する輩が嫌いだ。

まず第一に権利を教えるならば、義務が伴うことを教えろ。自由を主張したいのならば、その結果についての責任があることを教えておけ。

権利は義務を果たしてこそのものだし、自由には責任が伴うものだ。

しかし現実には、子供は義務を果たすには幼すぎるし、責任を全うする能力が十分でない。だからこそ、親が守り、親が責任を果たす。

つまり、子供の権利や自由なんて、大人の監督あってのものだ。そして大人には、子供を自由の権利と義務、自由の大切さと責任の重さを教える義務がある。

子供を立派な大人に導く義務が大人にはある。この点を忘れてもらっては困る。

だが、困ったことに、この大人の義務を忘れて、子供に好き勝手させることが良いことだと勘違いしている大人が少なくない。

レストランで大声で駆け回る自分の子供を放置する親なんざ、その典型だと云える。このような親は社会人として未熟であることがほとんどで、ほぼ間違いなく自己中心的な価値観で凝り固まっている。いわゆる親になる資格のないダメ親である。

家庭だけではない。学校にも、この手のダメ教師が相当数生息している。だいたいが、子供の自主性尊重とか、子供の平等とかを協調する、自称良心的教師だ。

大人が適切に指導しない子供の自主性なんて、放置以外のなにものでもない。私自身がそうだったが、子供に自由にやらせれば、ほとんどの場合、楽なことしかしない。はっきり言えば、怠惰なままに好き勝手するだけだ。

成績に差をつけると、成績の悪い子供が可哀相だと全員に5を付ける教師がいる。走るのが遅い子供がビリになるのは可哀相だと、手をつないでゴールに皆で入る徒競争をさせる教師がいる。

努力する子供と、怠ける子供を平等に扱うことにより、努力の価値を貶める弊害になぜ気がつかない。いくら学校のなかだけ無理やり平等にしても、社会に出れば不平等な現実が待っている。

学校とは、子供たちが社会に出て生きていくために必要なことを学ぶ場ではなかったのか。教師の自己満足を実現するための、歪んだ箱庭なのか。

子供に優しく接することと、子供を甘やかすことが違う。時には厳しさを教えることも、子供を育てるためには必要なことだ。

それなのに、子供の自主性を重んじますと、教師の責務から逃避してどうする。自由と放置を混同するな。大人が子供に教えるべき義務を果たさなければ、どうなるのか

その一つの答えと言っていいのが、表題の作品だ。

無人島に流れ着いた子供たちの一団が、自主的に、自由に、やりたいことをやりたいようにやった結果がどうなのか。子供の自主性とか、自由とかを、やたらにありがたがる人は必読の書だと思う。

コメント (5)
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