のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『北京故宮博物院200選』と『ゴヤ展』

2012-01-21 | 展覧会
久しぶりに世界崩壊系の夢を見たなあ。


それはさておき
日帰りで東京へ行ってまいりました。
東京国立博物館140周年 特別展「北京故宮博物院200選」で展示中の『清明上河図』を見るためでございます。結論から申しますと、見られなかったんでございますけどね。

6時半の新幹線に飛び乗ってなんとか9時半の開館前に国立博物館までたどり着いたものの、玄関口にはすでに長蛇の列ができており、まず入館するまで1時間かかりました。まあそのくらいなら何でもございませんが、館内に入ってみればさらに清明上河図専用の行列というのがございまして、これが孔子さまもびっくりの4時間待ち。少々割り引いたとしても3時間。3時間あればすぐ横の国立西洋美術館でゴヤ展を見て帰れるではございませんか。
しばしの葛藤ののち、清明上河図との対面は断念いたしました。お宝中のお宝でございますから、まみえる機会はもう二度とないかもしれませんけれども。是非もなし、でございます。

というわけで本命は拝めなかったにしても、展覧会自体はそれは素晴らしいものでございました。
ユニークな意匠の青銅器、緻密な彫りが施された玉(ぎょく)、ペルシャの水差しを思わせる姿の磁器など、長い歴史&広大な版図&東西交流の賜物と言うべき工芸品。孔雀の羽を敷き詰めた上に貴石で細かい刺繍を施した礼服、大粒の真珠と色の濃い翡翠を惜しげもなくあしらった頭飾りといった、手間も素材も贅を尽くした服飾品。ある時代に即した美意識や意図を跳び越えて、今の私達の心にまっすぐ切り込んで来る絵画や書跡。

そうした目もくらむような文物が居並ぶ中でも、ワタクシが最も喜ばしくありがたく見たのは世界史上に輝く風流天子にして北宋を滅ぼしたほぼ張本人、徽宗さんの書画2点でございました。思いがけず第一室で徽宗さんご自身の作品にお目にかかれて、清明上河図を諦めた口惜しさも文字通りふっ飛びましたですよ。
徽宗さんは芸術家としても歴史上の人物としても思い入れのある人でございますので、対話するような心地で臨みました。見ると、ごつごつとねじくれた奇妙な格好の岩が描かれているではございませんか。「祥龍石図」なんてカッコいいタイトルをつけておりますけれど、これも悪名高き”花石綱”で各地から取り寄せた奇岩のひとつに違いございません。こんなのに情熱を傾けるから国が滅ぶんじゃばっかもーん。

まあ君主としての適正はともかくとして、芸術家としてのこの人のセンスと力量は疑うべくもないのでございました。
何と鋭く、厳しく整った、しかもしなやかな書体でございましょうか。詩帖の一編である閨中秋月など、まさに秋の夜の月のように冴え冴えとした美しさ。ほんとにこの人は、単に風流な皇族として絵を描いたり、書を書いたり、道教に凝ったりして一生を送ることができたら幸せだったでしょうに。ご本人にとっても、人民にとっても、後世の美術ファンにとっても。その代わり、水滸伝という物語が語られることもなかったかもしれませんが。

さて東洋史専攻だった割に元以降の知識はすっからかんに近いのろとしては、今回展示品を通じて康熙帝・雍正帝・乾隆帝といった清代に輝くビッグネームとお近づきになれたことも有意義なことでございました。
近代版清明上河図とも呼べそうな『康熙帝南巡図巻』は二巻合わせて幅50メートルを超える大作なんでございますが、それはもう緻密に描かれているんでございます。またその細部の描写がいちいち楽しく、色彩も美しく、たいへん見ごたえがございました。↓で一部拡大したもの見ることができます。
東京国立博物館 - 1089ブログ

文人風・農民風・はたまた西洋の君主風とさまざまな立場の人物にコスプレした雍正帝の肖像画『雍正帝行楽図』など、こういうものを描かせた帝の真意はさておいて、たいへん微笑ましい作品でございました。ちょっと森村泰昌氏を連想しましたけどね。

私生活情景 : 故宮博物院展4 雍正帝

そんなこんなで
会場から出ますと依然として清明上河図待ちラインが長々と続いておりました。3時間待ちですと。物販コーナーの人ごみもあいまって、宵山の四条通界隈のような混雑ぶりでございます。とりあえず『「清明上河図」と徽宗の時代―そして輝きの残照』という本だけ購入して物販コーナーから這い出ますと、2時半になっておりました。
人の多さと展示内容の充実度にくたくたでございます。
しかしここでゴヤを見て帰らねばのろがすたるというもの。
というわけで、西洋美術館のベンチで『考える人』の背中を眺めつつキオスクのアンパンをかじったのち、さてとプラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影へ。

もちろんゴヤといえばスペインの押しも押されぬ宮廷画家であり、肖像画の名手でもあるわけでござますが、ワタクシは今までこの画家を時代や地域と関連させて考えたことがほとんどございませんでした。と申しますのも、ワタクシにとってゴヤとは人間の最暗部をえぐり出すような『戦争の惨禍』や『ロス・カプリーチョス』、そして連作「黒い絵」の画家であり、これらの作品におけるテーマは地域や時代といったものとはほとんど関係なく、まったく普遍的なものだからでございます。

本展でタピスリーの原画用に描かれた明るい作品を見て、ああ、ゴヤって時代的にはロココの画家でもあるんだ、と初めて気付かされました。しかし解説パネルによると、いかにも明るく、いっそ能天気にさえ見えるそれらの油彩画にも、実は社会批判がこめられているのだとか。ワタクシにはそう言われてみないと(あるいは言われてみても)分かりませんでしたが、猫の喧嘩を目にした時は一瞬、後年描いた殴り合いの絵の習作かと思ってぎょっとしましたけれども。

しかしまあ、何と言っても素描と版画でございます。完成した版画作品と共にその原案の素描が展示されているものもあり、画家がどこを強調し、何を削り、また何をつけ加えたかということが見て取れてよろしうございました。例えば、ゴヤの版画の中でも目にする機会の多い理性の眠りは怪物を生むなど、構想のスケッチでは机につっぷした男の斜め上に大きな鳥がぼーんといるばかりで、それほどまがまがしい印象をのでございますが、完成作品では鳥ともコウモリとも魔物ともつかない者どもが男の背後からぞくぞくと沸き上がるように描かれ、「理性の眠り」に乗じて諸々の暗い情念やイメージが生み出されて来るさまが雄弁に表現されております。

えっ
マハですか。
うーん。やっぱり、すっぽんぽんよりも何か身にまとっている方がセクシーですよね。『裸のマハ』が隣にいないので欠席裁判になりますけれど。
モデルが不明であることや、着衣と裸体のセットであることなど、人を惹き付ける要素のある作品ではあります。しかし数あるゴヤの作品中で『マハ』がそう飛び抜けて優れているとは、ワタクシには思われません。今回の展示に即して言うならば、「光」を全身にまとった長椅子のマハよりも、小品ながら『魔女の飛翔』に見られる鮮烈な「闇」の世界こそ、ゴヤの本領という気がいたします。



さてゴヤと別れると閉館までもう40分あまりの時間しかございませんでした。くたくたくたくたでございます。しかしせっかくトーキョーまで来たんだからと貧乏性を発揮して常設展示へと強行し、ヴァン・ダイクの肖像画にハハーとひれ伏し、ギュスターヴ・ドレのうまさにほとほと感心し、ウィリアム・ブレイクってやっぱり性に合わねえやと納得した所で閉館のアナウンスに追われて上野駅へと向かったのでございました。





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