のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ルーヴル美術館展1

2009-07-27 | 展覧会
牛乳を飲み
あんずをかじり
朝一番の自転車を駆って京都市美術館のルーヴル美術館展へ行ってまいりました。

ものすごい人出とはかねてより聞き及んでおりましたが、レンブラントとフランス・ハルスを見られるならば、そこにいかなる困難が待ちかまえていようとも行かねばなりますまい。
とは申せ、開館前から入り口に延々と並んだ修学旅行生の群れを目にしていささか怖じ気づいたのも事実でございます。



本展の副題は「17世紀ヨーロッパ絵画」。17世紀ヨーロッパと言えば一般的に絶対王政、中央集権の時代とも評されますが、のろにとっては何を置いても「オランダの世紀」でございます。
展示室に足を踏み入れると早速「アムステルダム新市庁舎のあるダム広場」が迎えてくれます。

額絵シリーズ「美の殿堂 Louvre ― ルーヴルに見る暮らしの情景 ―」
↑リンク先中ほどの「5月の額絵」の所で見られます。(画像が一番綺麗なのでこちらにリンクしたまでで、他意はありません。ちなみに某新聞社が関わっている展覧会は販促のために招待券が大量にばらまかれるのが常となっているようです。何も某新聞に限った話ではありませんが、これが超混雑の一因となっているのは確実で、苦々しく思うのが正直な所。ジャーナリズムを標榜するならオマケで読者を釣るのではなく中身で勝負していただきたいものです。芸術鑑賞の間口が広がることは大いに結構ですが、それならタダ券のばらまきよりもむしろ入場料金そのものを引き下げていただけないものか)

左手の大きな建物が市庁舎、広場を挟んで右側の賑わいのある建物は商品の計量所、市庁舎の向こうに見えますのが教会でございます。描かれたのが1655年かそれ以降ということでございますから、借金をどっさり抱えたアムステルダムの巨匠レンブラントも、彼のご近所さんであった青年スピノザも、おそらく日常的に目にしていた風景でございます。スピノザなどは父親が死んだ1654年から二年間、父の後を継いで貿易関係のあきんどをやっておりましたから、まさにここに描かれている計量所に出入りしていたやもしれません。
計量所の前では澄明な「オランダの光」が降り注ぐ下、商人たちが大きな袋を囲んで商談にいそしんでおります。あの中の一人に”ベントー&ガブリエル・デスピノザ商会”の若き共同経営者も混ざって、取引したり、交渉したり、ぽかぽか殴られたすえに帽子を踏んづけられたりしていたのかと思うと、孤高の哲学者も何やら身近に感じられるではございませんか。

解説パネルによるとこの絵は「ひとつの場面に共同体活動、宗教活動、商業活動を示すものが描かれ、オランダの黄金の世紀の縮図となっている」のだとか。なるほど、そう思って見るともう一つ面白いことがございます。
1655年はヤン・デ・ウィットが事実上の首相となって2年目に当たります。事実上、と申しましたのは、当時オランダには法的に明確に定められた最高責任者の地位が無かったからでござます。それがためにデ・ウィットら法律顧問の属する議会派と独立戦争の英雄オラニエ家を中心とした総督派との間の権力闘争が常態化しまして、対立が激化して権力者の処刑に至ることもあり、ついにはデ・ウィットもまたその犠牲になるのでございますが、それはまたのちの話。

ともあれデ・ウィットのもと、オランダは空前の経済的繁栄と、他国に類を見ない宗教的寛容を謳歌したのでございます。当時オランダで宗教的優位を誇っていたのはキリスト教カルヴァン派(プロテスタントの一派)でございまして、ここに描かれている教会もプロテスタントのものでございましょう。その教会勢力にとっては他宗派やユダヤ教を容認する「宗教的寛容」は全く面白いものではございませんでした。カルヴァン派が他宗派に対する弾圧を当局に求めることもございましたが、デ・ウィットは自身の自由主義的な思想と政治的な立場から、教会は国政に口出しすべきではないと考え、カルヴァン派聖職者の突き上げを抑えて寛容政策を取り続けました。おかげでさまざまな宗派の人々が自由に経済活動を展開し、彼の庇護のもと、「徳ある無神論者」スピノザは自由な思索と(そこそこ)自由な著作活動を許されたのでございます。

風景画家ベルクヘイデの絵は、別段政治的な意味を持ったものではございますまい。しかし上記のような背景を考えますと、堂々とした新市庁舎、即ち共同体活動の象徴が、宗教活動の象徴である教会の前にそびえ立ってその半分あまりを影で覆っている様子は、宗教に対する国家の優位というデ・ウィットの理念と政策をも象徴しているようにも思われるのでございます。


次回に続きます。


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