のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ルーブル美術館展2

2009-07-30 | 展覧会
7/27の続きでございます。

アムステルダム風景の真向かいに展示されておりますのが、『金色の花瓶に活けられた花束とルイ14世の胸像』(←サムネイルをクリックすると拡大されます)。

太陽王の栄光と偉業を讃えているというこの作品。黄金に輝く花瓶には花々が溢れかえり、ルイ14世その人を表す胸像の足下にはたわわに実った葡萄やザクロと凝った装飾の鎧が置かれております。
華やかな作品でございます。技術的にもなかなかのものでございます。しかしのろの目を引いたのはその精緻な描写や見事な質感の描き分けよりも、華麗さの中にある、一抹の危うさと陰りでございます。

のろはこの絵を遠目に見た時、異様に立派なヴァニタスかと思いました。
ヴァニタス(ラテン語で「虚栄」)とは17世紀オランダを中心に流行した、この世のはかなさや虚しさ、移ろいやすさを寓意的に表現した静物画でございます。花瓶の中で咲き誇る花々や熟れきった果実はヴァニタスに好んで描かれるモチーフでございました。王を讃えるために描かれたこの作品では、花や果実は虚しさではなく国土の栄華と豊穣の象徴として表されたものでございまして、解説パネルにもそのように書かれておりました。にもかかわらずのろはこの絵から、次第にぐずぐずと崩れて行くもののような危うい印象を受けました。あたかも、来たる爛熟の時代の先触れのように思われたのでございます。

この危うさは何から発しているのでございましょうか。
明らかに開きすぎのチューリップや、しおれ始めている朝顔からか。自らの重みにうなだれて花瓶から落ちかかっているシャクヤクからか。あるいは、豪奢な見かけのわりにはぞんざいに床置きされている鎧の重たい輝きからか。

この絵が描かれた時フランスはどんな状況であったのか。ちと調べてみますと、1684年はヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」が完成した年でございました。まさしく栄華の絶頂だったと申せましょう。翌1685年がこの絵の描かれた年でございます。この年ルイ14世は「ナントの勅令」を廃止し、プロテスタントへの寛容政策を止めたのでございます。これによってフランスからは大量のプロテスタント人口が流出することとあいなりました。要するに100年前のスペインと同じようなことをやらかしたわけでございますね。国内のカトリック信者たちは諸手を上げてこの措置を歓迎しましたが、度重なる対外戦争に加えて、勤労を美徳とするプロテスタントの商工業者を失ったことは、結果的にフランスの国力の衰退を招いたのでございます。

してみるとこの作品は、フランスが片足で栄光の絶頂を踏みしめつつ、もう片足で下り坂への一歩を踏み出した時に描かれているわけでございます。そう考えますと、この絵の華麗さの中からにじみ出る陰りにも納得がいきます。画家はこれからフランスがゆっくりとたどる下降線を、まさか予期していたわけではございませんでしょう。しかし結果的にこの絵はやはり「異様に立派なヴァニタス」だったのでございます。


ついでなのでオランダの話をさせてくださいまし。
花と果実が栄華の象徴ならば、鎧が物語っているのは太陽王が行った数々の対外戦争(=侵略戦争)でございます。
国力にあかせてばんばん戦争をしかけたルイ14世、当然豊かな隣国オランダにもその矛先を向けております。オランダでは「災厄の年」と呼ばれる1672年、フランスは12万人に上る陸軍をオランダに侵攻させました。海運国オランダは強力な海軍を持っておりましたが、陸の戦力においてはオランダをはるかに上回るフランス軍は瞬く間に諸州を制圧し、アムステルダムへと迫ります。
軍事に強い総督派(7/27参照)はこの機にがぜん勢いを得て政治権力を奪取。それまで中央集権的な総督派を抑えて軍縮を進めて来たデ・ウィットは危機を招いた責任をとらされて辞任に追い込まれます。
デ・ウィットは辞任の16日後、総督派に煽動された暴徒に襲撃され、兄とともに路上で惨殺され、遺体は辱められました。
2人の無惨な姿をご覧になりたいかたはこちらでどうぞ。
Johan de Witt - Wikipedia, the free encyclopedia
↑いきなりではございませんのでご安心を。中ほどまでスクロールすると小さめの画像が出てまいります。クリックすると拡大されます。

この事件は普段冷静でもの静かなスピノザをして、憤りの涙を流さしめたのでございました。

総督派は(ともに独立戦争の際の中心勢力でもあり、より思想的に統制された社会を望んでいた)カルヴァン派聖職者たちからも支持され、民衆の人気もありました。カルヴァン派と結びついた総督派が権力を握ったことにより、オランダの思想的寛容は(依然として他国よりもましだったといえ)後退しました。思想と言論の自由をうたい、デ・ウィット政権下で刊行されたスピノザの『神学・政治論』はデ・ウィット殺害の2年後に発禁となり、執筆から300百年以上を経た現代も読み継がれる『エチカ』はスピノザの生前に発行されることはございませんでした。

17世紀の話ではございます。
が、信仰と結びついた軍国主義や、苦境に対するスケープゴートを求める群衆、自由な言論の封じ込めといったパターンは、残念ながら今なお決して馴染みの薄いものでないと思われるのでございますよ。



次回に続きます。


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