のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

近美の常設展

2009-07-23 | 展覧会
何となく7/16の続きでございます。
ソビエト無声映画ポスター展と同じ会場で見られるコレクション展示の感想を少々。

京都近代美術館の常設展示室、以前はいつ行ってもほとんど代わりばえがしないという印象でございましたけれども、近年は外部団体とのコラボレーションなども行いつつ積極的に展示替えをなさっているようでございます。今回の近代日本画のセクションには、漁民や女工など、庶民を描いた作品が集まっておりました。
その中でとりわけのろの目を引きつけたのは梶原緋佐子の「唄へる女」でございます。

鼻緒のよれた高下駄を踏みしめ、濃い鼠の着物に長い前掛けを垂らした女が、木の格子の前で唄っております。
肩には薄汚れた手ぬぐい、それを握る両手は仕草こそなよやかではあるものの、太くずっしりとした量感があり、日々の労働を感じさせます。梶原緋佐子は菊池契月の門下生とのことですが、師匠の描く端正で清澄であくまでも上品な女性たちとは正反対の泥臭さ、そして何やらむくむくとした生命感がございます。
半開きになって歯茎ののぞく口元。身体は正面を向いているのに視線は鑑賞者を見据えることなくあらぬ方向へと漂い、開いた襟元と相まってくたびれたような、猥雑な印象を発しております。
あまりにも飾り気のないその表情は見る者をどぎまぎさせます。それはあたかも隠し撮りのスナップ写真のようであり、見てはいけないものを見ているような気がするのでございます。

ベンチに腰を落ち着けてこの作品を見ているうちに、のろはこれと全く対照的な作品である土田麦僊の「大原女」を思い出しました。
同じく庶民の女がモチーフでありながら、2つの絵の何と違っていることよ。おそらくは実際の風景に取材していながらも、西洋絵画の写実的技法と日本画の装飾性を融合させた「大原女」に描き込まれているのは、美と調和の支配する一種の理想郷でございます。陰りのない色彩で描かれた風景の中、しみ一つないパステルカラーの服に身を包んだ大原女たちは調和に満ちた世界の住人として、人形のようなやさしい顔をこちらに向けております。
対して「唄へる女」は濁世のぬかるみの中に足を踏みしめて生きる人間であり、愛玩品でもなければ美の理想を担わされてもいない、生身の女性像でございます。背景による演出を極力抑えた画面からは、決して理想郷ではない「この世」という場所に生きる人間の哀感と図太い生命力とが、風景の中に放電されることなくひたすら見る者へと迫ってまいります。

どちらがいいという話ではございません。
ただワタクシは、のちに梶原緋佐子がいたって端正な、いわゆる美人画ばかりを描くようになったことが、いささか残念なのでございます。美しい着物に身を包んだ白い顔のお嬢様たちはまことに絵になるモチーフであり、作品も実にうるわしいものに仕上がっております。
かつて彼女に描かれてた底辺の女性たち、老いた芸妓や唄う女は、決して「絵になる」つまり見目うるわしいモチーフではございません。その生の苦しみやわびしさ、やるせなさをも視野に入れたならばなおさらでございます。しかしその女たちには-----のちに主役の座に取って代わる美しいお嬢様たちには見られない-----何か恐いような迫力と圧倒的な存在感があったのであり、そこに注目したまなざしこそが、この画家の個性の最たるものではないかと思うからでございます。


そんなわけで「唄へる女」に圧倒されて日本画セクションと写真セクション(いつも長谷川潔の作品が展示されている所。今は東松照明の作品を展示中)をふらふら通り抜けて第四室へとたどり着きますと、涼やかなガラスの作品群が目に飛び込んでまいりました。
ガラスを使った作品はいつみてもいいものでございますが、暑いこの季節にはいっそうよろしうございますね。
氷河のような冷たい輝きを放つ立方体、中央に細かい気泡を閉じ込めた球体、プリズムとなって虹色の光りを身中に映し込む、透明なピラミッド。
造形の面白さもけっこうなものでございますが、その素材感を見ているだけでもひんやりと涼やかな気分になります。

ちなみに、近美一階ロビーには『前衛都市・モダニズムの京都』展に合わせて、大正時代の電気自動車「デトロイト号」が展示されておりました。自動車というより馬車のようなデザインでございます。



当記事も展示中にUPするつもりだったのでございますが、うかうかしているうちに会期終了してしまいました。



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