読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「ある女」

2006年12月09日 | 現代フランス小説
Annie Ernaux, Une femme, Folio 2121, 1987.
アニー・エルノー『ある女』(ガリマール、1987年)

前作の『場所』で父親の一生を回想したエルノーが、1986年に亡くなった母親の一生や自分との関わりについて書いた私小説。

「私」の母は1906年に6人兄弟の4人目として、Yvetotに生まれた。当時のイヴトの町はノルマンディーの商業と行政の中心地の一つで、彼女は田舎生まれではなく町の生まれだということを自慢していた。

彼女の母、つまり「私」の祖母は気が強くて勉強がよく出来て、小学校の先生にもなれるほどだったが、家族が家を出ることに反対したために勉強を断念した。ノルマンディーでは野心は別離の苦しみとみなされていたらしい。この祖母は家庭経営の面でもしっかりもので、物を大事に使うことに長けており、倹約節約上手で、こうした面は「私」の母にも伝わった。

「私」の母は勉強には身が入らなかったが、教理問答が大好きで暗記していた。小学校を終えてマーガリン工場に入り、その後紡績工場の女工になる。兄弟姉妹がみんなそこで働くことに成り、工場の近くに家族で引越しをした。兄弟姉妹のなかで一番自尊心が強く、貧しいものとしての自覚を持っていたのが母で、他の兄弟姉妹は酒に溺れて早死にした。

結婚してからのことは前作の『場所』に触れられているが、カフェ兼食料品店を経営していたのはほとんど母のほうで、彼女は客向きの顔と家族向けの顔という二面性を上手に使い分けることができる女性だった。

「彼女は二つの顔をもっていた。客向けの顔と、私たち家族向けの顔である。カフェのドアチャイムが鳴ると、彼女は笑顔になって舞台に出て行き、健康とか子どもとか庭とかについての毎度毎度の質問にも辛抱して答えた。台所に戻ってくると笑顔は消え、「他にもっと安いところを見つけたら」すぐに寄り付かなくなるのではないかと客のことを疑っていながら、そういう客のためにこんな努力をしなければならないのかと喜びと苦痛のまじった役を演じることにぐったりして、しばらく無言のままでいるのだった。」(Une femme, p.53)

しかしこれはある意味プロ意識の現れであって、彼女は客との話がスムーズに行くように、客の話題を知らなかったということがないように、情報に対する好奇心は旺盛で、新聞やら雑誌やらをよく読んでいたのだった。

そして「私」が思春期を迎えると同性としてのいざこざが絶えなくなる。もちろん母親が娘の頃に女性解放なんかは考えられもしないことであったが、「私」が少女から学生になる頃には、そういう面での運動は別としても、女性の自由とか解放があちこちで叫ばれるようになる。そういう時代にはただただ娘としては普通の服装をしたつもりでも、母親からは「なんて格好しているの!」と言われてしまうのだった。

「18才になるまで、私たちの喧嘩はほとんどいつも、外出する・させないと服装の選び方ばかりだった。(...)ふたりともどうしたらいいのか分かっていた。母は、若い男に気に入られたいという私の気持ちが気に入らなかったのだし、私は「私になにか不幸が降りかかる」つまりどっかの男と寝て妊娠させられてしまうのではないかという母の強迫観念が気に入らなかったのだ。」(Une femme, p.61)

父が亡くなって一人になると、一緒に住みたがり、すでに結婚して子どももいた「私」は夫の勤務の都合で当時すんでいたアヌシーの家に母を呼んで同居することになった。当時はまだまだ元気で家事をしたり孫の世話をしてくれていた。そしてパリの近郊の町に転勤になったころに交通事故にあい、それが回復してしばらくしてから再びイヴトに戻って一人で住むようになった。

83年にアルツハイマー病であることが分かり、医者からは養老院に入れるように勧められる。一人での生活は無理だとの判断だった。その頃から、母は怒りと猜疑心の人となり、同じ時期に「私」も離婚したのをきっかけに、精神的に不安定になり生活もあれるようになった。母は独り言を言ったり、物が食べれなくなり、とうとうポントワーズ病院に強制入院ということになった。ついに人間として壊れた状態になり、86年に亡くなった。

20世紀のフランスのほぼ全域を生きてきた、名もなき女性の一生を娘の立場から振り返ったこの小説は、なぜかしらないが、前作の『場所』の父親の一生ほどの普遍性を持ちえていないように思う。はっきりと確信をもって言うのではないが、たぶん母と娘というのが、やはり近すぎるからではないか。娘から見た父ほど客観視できていない。とくに自分自身が妻となり母親となり、さらに離婚してからの自分の置かれた状態が、一人取り残され、さらないアルツハイマー病におかされて崩壊していく母親の姿と重なって見えていたはずで、客観視するのは、困難な立場にあったともいえる。

作者は最後に「これは伝記でもなければ、当然のことながら小説でもない。たぶん文学と社会学と歴史のあいだの何かだろう」(p.106)と書いているが、やはりこれは私小説であると思う。しかし日本の私小説と違って、虚構としての文学という広大な伝統の上で書いているだけに、私小説でありながら、社会学的歴史学的な意義をもっているということができるのではないだろうか。

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