読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「そこへ届くのは僕たちの声」

2006年12月20日 | 作家サ行
小路幸也『そこへ届くのは僕たちの声』(新潮社、2004年)

広告製作会社にライターとして14年間勤務した後、ゲームのシナリオ制作を契機に退職し、作家デビューを果たしたという経歴の持ち主なのだが、なんか最近こんな感じで会社勤務をしていた人が、ある程度年齢がいってから、作家としてデビューするというようなケースがけっこうあるなと思う。少し前にあったような、20歳くらいの若者の鮮烈なデビューというようなとは違って、渋めの感じだが、いいことだと私は思う。

この作品もそうだが、現代の小説はほんとうにイマジネーションがないと書けないと思う。ありきたりのことをちょっと変わった風に書くのは不可能に近いような気がする。

この小説も「遠話」という、一種のテレパシー能力のようなものをもつ子どもたちの話だ。テレパシーと違うのは、テレパシーだと頭の中で会話が交わされるのであって、「遠話」のように実際に喋るわけではない。「遠話」では実際に喋っているから、喋っている子の言葉は周りの人にも聞こえるが、相手からの声は「遠話」の能力のある子にしか聞こえない。周りの人には聞こえない。

そういった能力を持った子どもたちのネットワークが、危機にある子どもたちの声を聞き取り、一種のワープによって、火災現場とか交通事故現場とか地震現場などから子どもたちを助け出すということをしている。その一人であるリンこと倫志(ともし)と彼の両親、そしてその周辺にいる大人や同級生たちが、しん・みなと線という開業したばかりの電車内でのテロ事件から人々を救い出すというお話である。

私がこの小説にすごい違和感を覚えるのは、登場する中学一年生たちの、あまりにもいい子ぶりである。もちろんぶりっ子をしているわけではない。人に対する妬みとか恨みとかはもちろんのこと、大人に対する反抗的な考えも態度もない。自分の世界だけをみて生きている。とても生身の人間とは思えない造形に、違和感を覚えるのだ。リンの父親の友人で新聞記者の辻谷がちょっと大人ぶった江戸っ子弁で悪ぶってみせるくらいのことで、登場する人物のだれもがいい人なのだ。おまけにテロによる爆弾事件になって登場する警察関係者もみんないい人ばかりで、世の中こんないい人ばかりだったら苦労はないわなと、皮肉の一つも言いたくなるような世界が描かれているのには、ちょっと苦笑せざるを得ない。

それは、この作品が登場人物のリン、同級生で、かつて阪神大震災のときにこのネットワークのおかげで救われたかおり、かおりの友だちの満ちる、辻谷などが回想して話したのを速記したような形式でかかれているので、その語り口がまさに彼らの人間性を表す形になっているから分かることなのだ。

「遠話」のネットワークの中心にいる子どもは「ハヤブサ」と呼ばれるのだが、両親がいなくて、自分自身も虚弱な体をしていて、ずっと車椅子で生活している葛木(リンと同年齢)が、現在はその「ハヤブサ」の役目を果たしている。彼がこのテロ事件で発揮する自己犠牲の精神などをみても、この小説の主題はたいへんなヒューマニズムに貫かれていることは分かるのだが、なんだかゲームを見ているような、そんな現実から遊離した世界の登場人物たちの話のように思ってしまう。

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