『阿弥陀堂だより』(2002年)
『雨あがる』の小泉尭史監督の作品。原作の南木佳士の作品を読んで感動したので、一度見てみたいと思っていたところ、ちょうどケーブルテレビで上映していた。
もちろん原作どおりにすることはないし、映像芸術と文字芸術とではその伝え方が違うのが当たり前だから、そこのところ前提にしてみる必要があるのだが、それでも原作が言いたかったことをちょっと履き違えているように思った。
まず作品のつくりとして残念に思ったのは、完璧を求めるあまり、子宮内流産をして完璧な妊婦を演じることが出来なかったことからパニック障害になった妻の美智子をつれて孝夫がふるさとの信州に帰ってきた冒頭のシーンから、妻の美智子がニコニコしすぎなのだ。この作品全体に流れる美しい信州の里山の自然の四季の移ろいが生きてくるためには、まず冒頭で心の病に陥った美智子の姿や、亀裂が生じつつあった孝夫と美智子の夫婦の人間関係などをある程度ていねいに描いておく必要があったと思う。そしてそれをある種強烈な映像で描いておくことによって、そのあとに提示される信州の美しい自然が彼らの関係や病んでしまった美智子の心を徐々に癒していくものとなることができるのはないだろうか。
もう一つは、田村高廣演じる幸田重長という老人だが、これは原作にはなかった人物だと思う。彼は末期ガンで先が長くない。彼の役柄は、これも原作者の南木佳士のほかの作品の主題の一つでもある死と心の病というものを提示するためのものだと私は見た。田村は末期ガンで先が長くない、そのことを受けいれている。つまり体は病に冒されているが、心は病んでいないのだ。南木佳士がかつての人間が死を受け入れるのはそういう風にして受けいれていたのだということをどこかの短編で書いていたと記憶するが、彼が延命医療が進むことで、体の病よりも心の病によって惨めな死を迎える人間たちをたくさん見てきたために自らパニック障害になって従来の仕事が出来なくなった経験から、こうした心を病むことなく死を迎える人間のあり方に注目することになったのは興味深いことである。だから、この作品にそういう人物を取り入れて、この問題を映画のもう一つの主題とすることには異論はない。原作者の南木佳士のものではないものを取り込んでいるわけではないのだから。
だが、田村高廣演じる老人の死はきれいすぎる。あんなふうにきれい事ではすまないだろう。しかしあれが阿弥陀堂守のおうめ婆さんなら別だ。その生きてきた生き様そのものが心の病にかかりようのない生き方をしてきたのだ。だから、おうめ婆さんこそがこの作品では心を病むことなく死を迎えることができる登場人物なのに、どうも監督はそのあたりのことが理解できていないのか、彼女がこの作品で占める割合はかなり低くなって、原作にありもしない幸田というような人物をでっち上げることが必要になってしまったのだ。
広報のなかの「阿弥陀堂だより」はまさにそうした心を病むことなく96年を生きてきたおうめ婆さんの生き方を伝えるものでもあるのであり、原作では孝夫にとっては自分の祖母の生き方とも重なるものになっている。
見る前は、また北林谷栄かよ、と思ったが、さすがに自然に演じている。たぶん自分も死を意識していたのではないだろうか。彼女をちょい役にしないで、彼女の生き方からもっと学ぶような作りにしてほしかったと思う。
『雨あがる』の小泉尭史監督の作品。原作の南木佳士の作品を読んで感動したので、一度見てみたいと思っていたところ、ちょうどケーブルテレビで上映していた。
もちろん原作どおりにすることはないし、映像芸術と文字芸術とではその伝え方が違うのが当たり前だから、そこのところ前提にしてみる必要があるのだが、それでも原作が言いたかったことをちょっと履き違えているように思った。
まず作品のつくりとして残念に思ったのは、完璧を求めるあまり、子宮内流産をして完璧な妊婦を演じることが出来なかったことからパニック障害になった妻の美智子をつれて孝夫がふるさとの信州に帰ってきた冒頭のシーンから、妻の美智子がニコニコしすぎなのだ。この作品全体に流れる美しい信州の里山の自然の四季の移ろいが生きてくるためには、まず冒頭で心の病に陥った美智子の姿や、亀裂が生じつつあった孝夫と美智子の夫婦の人間関係などをある程度ていねいに描いておく必要があったと思う。そしてそれをある種強烈な映像で描いておくことによって、そのあとに提示される信州の美しい自然が彼らの関係や病んでしまった美智子の心を徐々に癒していくものとなることができるのはないだろうか。
もう一つは、田村高廣演じる幸田重長という老人だが、これは原作にはなかった人物だと思う。彼は末期ガンで先が長くない。彼の役柄は、これも原作者の南木佳士のほかの作品の主題の一つでもある死と心の病というものを提示するためのものだと私は見た。田村は末期ガンで先が長くない、そのことを受けいれている。つまり体は病に冒されているが、心は病んでいないのだ。南木佳士がかつての人間が死を受け入れるのはそういう風にして受けいれていたのだということをどこかの短編で書いていたと記憶するが、彼が延命医療が進むことで、体の病よりも心の病によって惨めな死を迎える人間たちをたくさん見てきたために自らパニック障害になって従来の仕事が出来なくなった経験から、こうした心を病むことなく死を迎える人間のあり方に注目することになったのは興味深いことである。だから、この作品にそういう人物を取り入れて、この問題を映画のもう一つの主題とすることには異論はない。原作者の南木佳士のものではないものを取り込んでいるわけではないのだから。
だが、田村高廣演じる老人の死はきれいすぎる。あんなふうにきれい事ではすまないだろう。しかしあれが阿弥陀堂守のおうめ婆さんなら別だ。その生きてきた生き様そのものが心の病にかかりようのない生き方をしてきたのだ。だから、おうめ婆さんこそがこの作品では心を病むことなく死を迎えることができる登場人物なのに、どうも監督はそのあたりのことが理解できていないのか、彼女がこの作品で占める割合はかなり低くなって、原作にありもしない幸田というような人物をでっち上げることが必要になってしまったのだ。
広報のなかの「阿弥陀堂だより」はまさにそうした心を病むことなく96年を生きてきたおうめ婆さんの生き方を伝えるものでもあるのであり、原作では孝夫にとっては自分の祖母の生き方とも重なるものになっている。
見る前は、また北林谷栄かよ、と思ったが、さすがに自然に演じている。たぶん自分も死を意識していたのではないだろうか。彼女をちょい役にしないで、彼女の生き方からもっと学ぶような作りにしてほしかったと思う。