読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「パリの橋」

2006年12月12日 | 自然科学系
渡辺淳『パリの橋――セーヌ河とその周辺』(丸善ブックス103、2004年)

大都会の橋の場合、「おお、これが○○橋か!」などと感慨にふけって渡ることはほとんどないだろう。この著者のように、パリのセーヌ河にかかっている橋というテーマで旅行でもすれば別だが、またボンテ・ベッキオのように橋の上に家が並んでいて、それを観光すること自体が目当てなら別だが。

でも、何度かパリに行って、セーヌ河を渡ったことがあるので、そのときはなにも気づかなかったことを、この本で読んでみると、あれがそうだったのかというようなことが思い出される。こういう本を読むと、やはり旅って、なんかテーマをもつことが大事だな、旅を面白くするコツだなと思う。

今年の夏にパリに行ったときは、例のサン・ジャン・プール教会の木を模した列柱を見るのがひとつの目的だったし、それはそれで面白かった上に、思いがけない出会いもあったことは、以前記した。

でも今年はちょっと橋のことも注目していた。というのもルーヴルの脇からオルセー美術館に行くときに、ソルフェリーノ歩道橋という徒歩者専用の橋を渡ったのだが、そのとき、建築の勉強をはじめたばかりに息子が、ああこれは三角形の組み合わせで出来ている○○だと説明してくれたので、へぇと思ったのだった。そういう目でみると、とくに鉄筋で作られたものに三角形がめだつ。

それとオルセー美術館からルーヴルにわたるときにいつも使うのがロワイヤル橋だ。これはべつに何の変哲もない橋だが、そのあたりがヴォルテール河岸といって、オテル・ド・ヴォルテールというホテルがある。これがガイドブックでみるとなかなか洒落たホテルで一度泊まってみたいのだが、交通の便は悪そうだし、あたりに食事をできるようなところはないしで、それを覚悟で泊まらなきゃならないなと思っている。でも一度泊まってみたい。そこからの眺めはじつによさそうだ。

パリに旅行したときに、凱旋門の上の売店で1575年のパリの絵地図を買ってきたのだが、これをみていると、当時のパリはシテ島を中心としたごく小さな町にすぎない。この本でも説明されているように、いまのサンルイ島はルーヴィエ島、雌牛島、ノートルダム島の三つでできていて、橋がかかっていないし、シテ島にもノートルダム橋、シャンジュ橋(両替橋)、サンミシェル橋、小橋の四つしかなく、まだポン・ヌフはかかっていない。すでにオテル・ド・ヴィル(市役所)やルーヴルはあるが、高級ブティックで有名なサン・トノレ街は城壁のすぐ近くだし、サンジェルマン・デプレ教会が城壁の外にあるなど、みていて飽きない。それにセーヌ河が、fleuveではなくて riviereと呼ばれているのも面白い。

パリの紋章に帆船が大きく描かれているのも、ここが重要な港で、当時は帆船が重要な輸送手段だったからだろう。

古地図って眺めているとおもしろいな。

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「夏の魔法」

2006年12月11日 | 作家マ行
本岡類『夏の魔法』(新潮社、2005年)

長らくサスペンス物の小説を書いてきたが50歳を超えてはじめてミステリーから離れることを決意して書いた第一作目と奥付に説明が書いてある。長年サスペンスを書いてきただけあって、じつにこなれた読みやすい文章になっている。

野球の試合中に相手バッターの顔面にデッドボールをあてたことで試合には大負けし、クラスメートや相手校の生徒たちからの冷たい対応のために二年間ものあいだ引きこもりになっていた悠平が、愛人を作ったために離婚して一人で牛牧場を経営している父の高峰のもとで夏から夏へと過ごして立ち直っていった一年間を描いた小説である。

かつて学生時代に私の友人も大山山麓の農家の息子だったこともあって大学一年生の夏休みに北海道の牧場にひと月間のアルバイトに出かけたことがあった。当時、私は大阪に住んでいたので、大阪から札幌まで走っていた夜行列車で行くその友人が、うちで一泊していったのだった。この友人とは高校時代にはクラブも違うし、それほど親しい仲ではなかったが、二人だけが三年間同じクラスだったということで、高校卒業前の受験の直前になって何故か親しくなり、学生になってからも手紙のやり取りをしたりしていたのだった。北海道から絵葉書だとかをくれたが、そこに労働の日々の面白さが書かれていた。私自身は当時はそういうことにまったく興味がなく、なんか鬱々としてたように思う。

一昨年・昨年と、夏にかみさんと北海道旅行をした。一昨年は函館から小樽へ、昨年は知床から帯広のほうへ。とくに知床への旅行ではあちこちに牧場があったが、日本では北海道くらいでしか牛の放牧が成り立つところがないということを、この小説ではじめて知った。

さて、二年間も引きこもりをしていた悠平が高峰のところにやってくるが、最初はまともに挨拶もできない、自分から言い出したことなのに、朝起きて牛の世話をすることも出来ない、そういう状態から、それに苛立つ高峰と何度か衝突しながらも、牧場がもつ魔法のおかげで、徐々にやる気と持久力をつけていく様子が、生き生きと書かれている。

圧巻は、いくつかあるが、その一つが、悠平がはじめて搾乳をしようとしたときに、緊張した牛の糞尿を体に浴びてしまう場面だと思う。まさかそんなことがあるとは思わなかったが、たしかにだれだって知らない人に搾乳なんかされたりすれば、緊張してウンチやおしっこをもらしてしまうだろう。そういうものが染み付いて初めて、牛舎の匂いなんかも気にならなくなるのだろう。

第二がなんといっても「エンジェル」を連れて大逃亡をしでかしたことだろう。知らないお婆さんの一人住まいの家に上がってご飯をご馳走になり、そのお礼に雨戸を修理してあげたりしたことや、増水して中州に取り残された少年を助けたことによって、人に感謝されることを体験すると同時に、自分の早とちりで大事な「エンジェル」を死なせてしまったことが、悠平に人間としての大きなプラスとマイナスを与えるが、それは悠平が人間として成長するためにどうしても必要なことだったのだろう。

随所に「逃げるな、目を逸らすな」というメッセージが描きこまれている。こういうドラマや小説を読んでいるぶんには、これらのメッセージはなんでもないこと、だれだってできるように思えるかもしれないが、今の自分にはそれがずしりと重いメッセージとしてのしかかっている。私も逃げてばかりではいけないなと思う。たしかに今の自分には先が見えないけれども、また逃げないで進んだとしても、自分の思い通りのことになるとは限らないことが分かっている。でもやはり逃げてはいけない。そういう思いを感じながら読んだのだった。

たしかに、そんな風にはうまく行かないよというような話の展開もあるが、いいじゃないか。読むことで元気になるような小説も大事だよ、と思う。

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「ある女」

2006年12月09日 | 現代フランス小説
Annie Ernaux, Une femme, Folio 2121, 1987.
アニー・エルノー『ある女』(ガリマール、1987年)

前作の『場所』で父親の一生を回想したエルノーが、1986年に亡くなった母親の一生や自分との関わりについて書いた私小説。

「私」の母は1906年に6人兄弟の4人目として、Yvetotに生まれた。当時のイヴトの町はノルマンディーの商業と行政の中心地の一つで、彼女は田舎生まれではなく町の生まれだということを自慢していた。

彼女の母、つまり「私」の祖母は気が強くて勉強がよく出来て、小学校の先生にもなれるほどだったが、家族が家を出ることに反対したために勉強を断念した。ノルマンディーでは野心は別離の苦しみとみなされていたらしい。この祖母は家庭経営の面でもしっかりもので、物を大事に使うことに長けており、倹約節約上手で、こうした面は「私」の母にも伝わった。

「私」の母は勉強には身が入らなかったが、教理問答が大好きで暗記していた。小学校を終えてマーガリン工場に入り、その後紡績工場の女工になる。兄弟姉妹がみんなそこで働くことに成り、工場の近くに家族で引越しをした。兄弟姉妹のなかで一番自尊心が強く、貧しいものとしての自覚を持っていたのが母で、他の兄弟姉妹は酒に溺れて早死にした。

結婚してからのことは前作の『場所』に触れられているが、カフェ兼食料品店を経営していたのはほとんど母のほうで、彼女は客向きの顔と家族向けの顔という二面性を上手に使い分けることができる女性だった。

「彼女は二つの顔をもっていた。客向けの顔と、私たち家族向けの顔である。カフェのドアチャイムが鳴ると、彼女は笑顔になって舞台に出て行き、健康とか子どもとか庭とかについての毎度毎度の質問にも辛抱して答えた。台所に戻ってくると笑顔は消え、「他にもっと安いところを見つけたら」すぐに寄り付かなくなるのではないかと客のことを疑っていながら、そういう客のためにこんな努力をしなければならないのかと喜びと苦痛のまじった役を演じることにぐったりして、しばらく無言のままでいるのだった。」(Une femme, p.53)

しかしこれはある意味プロ意識の現れであって、彼女は客との話がスムーズに行くように、客の話題を知らなかったということがないように、情報に対する好奇心は旺盛で、新聞やら雑誌やらをよく読んでいたのだった。

そして「私」が思春期を迎えると同性としてのいざこざが絶えなくなる。もちろん母親が娘の頃に女性解放なんかは考えられもしないことであったが、「私」が少女から学生になる頃には、そういう面での運動は別としても、女性の自由とか解放があちこちで叫ばれるようになる。そういう時代にはただただ娘としては普通の服装をしたつもりでも、母親からは「なんて格好しているの!」と言われてしまうのだった。

「18才になるまで、私たちの喧嘩はほとんどいつも、外出する・させないと服装の選び方ばかりだった。(...)ふたりともどうしたらいいのか分かっていた。母は、若い男に気に入られたいという私の気持ちが気に入らなかったのだし、私は「私になにか不幸が降りかかる」つまりどっかの男と寝て妊娠させられてしまうのではないかという母の強迫観念が気に入らなかったのだ。」(Une femme, p.61)

父が亡くなって一人になると、一緒に住みたがり、すでに結婚して子どももいた「私」は夫の勤務の都合で当時すんでいたアヌシーの家に母を呼んで同居することになった。当時はまだまだ元気で家事をしたり孫の世話をしてくれていた。そしてパリの近郊の町に転勤になったころに交通事故にあい、それが回復してしばらくしてから再びイヴトに戻って一人で住むようになった。

83年にアルツハイマー病であることが分かり、医者からは養老院に入れるように勧められる。一人での生活は無理だとの判断だった。その頃から、母は怒りと猜疑心の人となり、同じ時期に「私」も離婚したのをきっかけに、精神的に不安定になり生活もあれるようになった。母は独り言を言ったり、物が食べれなくなり、とうとうポントワーズ病院に強制入院ということになった。ついに人間として壊れた状態になり、86年に亡くなった。

20世紀のフランスのほぼ全域を生きてきた、名もなき女性の一生を娘の立場から振り返ったこの小説は、なぜかしらないが、前作の『場所』の父親の一生ほどの普遍性を持ちえていないように思う。はっきりと確信をもって言うのではないが、たぶん母と娘というのが、やはり近すぎるからではないか。娘から見た父ほど客観視できていない。とくに自分自身が妻となり母親となり、さらに離婚してからの自分の置かれた状態が、一人取り残され、さらないアルツハイマー病におかされて崩壊していく母親の姿と重なって見えていたはずで、客観視するのは、困難な立場にあったともいえる。

作者は最後に「これは伝記でもなければ、当然のことながら小説でもない。たぶん文学と社会学と歴史のあいだの何かだろう」(p.106)と書いているが、やはりこれは私小説であると思う。しかし日本の私小説と違って、虚構としての文学という広大な伝統の上で書いているだけに、私小説でありながら、社会学的歴史学的な意義をもっているということができるのではないだろうか。

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「スープ・オペラ」

2006年12月08日 | 作家ア行
阿川佐和子『スープ・オペラ』(新潮社、2005年)

テレビで見た阿川佐和子とか、以前読んだ対談集なんかの阿川佐和子のイメージがまったくみあたらない小説なので、ちょっとびっくりしたが、やはりもの書きとして食っているわけだから、これだけの力量はあるのだ。

母親が出産後すぐに亡くなり、父親も一人では育てられないと放棄したために、叔母にあたる藤子に育てられた島田ルイは、短大を出て、某大学の事務職員をしている。叔母の藤子(ルイはトバちゃんと呼んでいる)と古い木造の家に二人で住んでいる。彼女たちの得意な料理は鶏がらから取ったスープで作ったスープご飯や野菜スープ。そしてこの物語の随所にこのスープや近所の肉屋のカツなど食べ物の話が出てくるのも面白い。

トバちゃんは「県境なき医師団」なる理想を掲げて僻地での医療に携わりたいと主張する水谷さんという医者に惚れこんでしまい、三十数年の同居を捨てて、初めて二人は別々にすむことになる。

トバちゃんがいなくなった家に、ひょんなことから売れない老画家のトニーと建築関係のフリーライターをしている康介が同居することになる。

康介は契約社員で、契約更新のときに首になり、近所のパン屋や肉屋でバイトすることになる。康介が付き合い始めたモデルのミシェルを連れてやってきたとき、トニーさんが彼女のかつての恋人だったことがわかる。トニーはいられなくなって出て行ってしまう。二人残された数ヶ月のあいだにルイと康介は恋人になってしまうが、ちょっとしたことが原因で喧嘩し、またちょうどその頃に京都の友人から仕事を依頼され、康介は京都に行ってしまう。

また一人の生活にもどってしばらくした頃、トバちゃんが水谷先生の浮気を勘違いして戻ってきたり、それを弁解しに水谷先生が来たり、トニーが数ヶ月の不在のあとふらっと戻ってきたり、また同じ日に京都の仕事が終わって康介が帰ってきて、最後には再び三人での生活が始まるところで、物語は終わる。

文章も素直で読みやすいし、物語そのものもけっして悪くはないのだけども、けっして夢中にさせるところもなければ、ワクワクドキドキするところもない。とにかくあっという間に読んでしまったけど、なんか感動も何にも残らない。奥田英朗の『サウスバウンド』とかとどこが違うのだろう?

なんかスリル・サスペンスの要素があるとかないとかというような問題ではなく、人生や生活の喜びとか哀しみとかについて考えさせるところが、なんか皆無というか、どういったらいいのだろう?絵でいうたら、なんの変哲もないものを、変哲もなく描いているような絵、とでも言おうか。誤解しないでもらいたいのは、けっしてけなそうとしてのではないのだ。でも褒める言葉が一つも見当たらないから、結果的にはけなしているように見えるかもしれない。うーん、自分でもなぜか分からない。

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「のだめカンタービレ」

2006年12月07日 | 日々の雑感
『のだめカンタービレ』

『のだめカンタービレ』が面白い。毎回ビデオに録画して、どれも2・3回は見ているが、飽きないほど面白い。なにがそんなに面白いのか?

まず、なんといっても登場人物というか、それを上手に演じている役者たちでしょう。上野樹里が「変な」のだめを上手に演じている。というか上野樹里ってあんな子だったんだと思わせるほど、地で演じているようなところがある。ピアノに没頭しているときの得意げな顔つき、千秋の妻きどりで、あれこれ世話を焼くときのうれしそうな顔などなど、じつに上手い。

それに千秋役の玉木宏。ほんとええ男やなー。なにをさせてもかっこいいというのが嫌味でない。たぶん『ウォーターボーイズ』でのコミックな役を見ているから、シリアスにも嫌味がないのだろう。

それに名前が覚えられないで困るが、金髪の映太とか、真澄役の小出康介とか、コンマス役の女優さん(名前知らない)などなど、みんな上手だ。

第二に、先が読めない展開。三話目くらいで、あぁこれは『スウィングガールズ』系なんだなと、ちょっとがっかりして、ビデオ録画をやめたのだが、もったいないことした。たしかにあの回はSオケが学園祭で盛り上がって一つにまとまるというのりだったが、それはたんなる通過点にすぎず、もっと先の展開があったのだが、それがまったく読めない。原作のマンガを読んでいる人には分かっていることかもしれないが、原作を読んでいないので、先の読めないワクワク感がある。

第三に、クラシック音楽の開拓。わりと食わず嫌いでブラームスなんか聞いたことがない、いわんやラフマニノフなんてという人だったので、千秋がピアノを弾いたラフマニノフのピアノ協奏曲だとか、いまやっているブラームスの交響曲第1番だとか、けっこういい音楽があるのだということを知った。そういうところも面白い。

月曜日が待ち遠しいわい。


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「場所」

2006年12月06日 | 現代フランス小説
Annie Ernaux, La place, Folio 1722, 1983.
アニー・エルノー『場所』(ガリマール、1983年)

作家が自分のプライベートなことを事細かに、しかも同情を引くような形で書いて、読者の関心を引いたり、読者の覗き趣味を満足させるといった類の、いわゆる「私小説」というものは、フランスにはない。ロマンにせよヌーヴェルにせよコントにせよ、あくまでも作り物、虚構ということがフランスにおける小説の大きな伝統になっている。もちろん一人称による語りの小説は多くあるが、作家が自分のプライベートなことをことさらに回想して書いたようなものは小説とは呼ばない。

ところが、このアニー・エルノーの『場所』という小説はどうやら実際の自分の両親や自分の青年期までのことをそのまま書いた私小説のように思える。登場人物たちがすんでいた町はY...と表記されるが、それは彼女が実際に子供時代をすごしたYvetotという町のイニシャルである。私小説の伝統のないところに、こうした私小説のようなものを書いたことが、逆にフランス人に目新しい印象を与えたのかもしれない。彼女はこの作品で1984年のルノドー賞を受賞している。

Y...というノルマンディーの小さな町でカフェ兼食料品屋を営んでいた父親の死と葬式という出来事を枠組みとして作品の冒頭と最後におき、父親の少年時代から、妻(「私」の母親))との出会い、カフェ兼食料品屋の開業、「私」の誕生、時代の変化についていけない父親の様子、師範学校に入った「私」との精神的な解離、「私」の結婚出産などを回想して、最後に父親の死に戻ってくるという形をとっている。

1899年生まれの父は、貧しい農家の生まれで、早くから家の農作業などにかり出され、家から2Kmのところにある学校には途中までしか通わなかった。勉強は好きだったので、読み書きは習得した。12歳(最終学年)では祖父と同じ農場で働くために学校を辞めた。

結婚後に渓谷のある町に建物つきの地所を買い、カフェ兼食料品屋をはじめる。飲み物、食料品、パテ、お菓子などなどを売る。貧しい人々の地域で、掛売りがおおくて困ったらしい。それで店を妻に任せて労働者としてスタンダード石油の精錬所などに働きにでることもあった。

1939年にはすでに40歳になっていたために召集されなかったが、働いていた精錬所がドイツ軍に破壊され、ほうほうのていで逃げ出し、家族のもとに戻ってきた。その数ヵ月後に「私」が生まれた。

私が病気がちだったので、両親は地所を売ってY...に戻ることにした。ここのほうが風が強い風土で、河もないし、「私」の健康のためにいいと考えたからだった。1945年のことだ。町の中心から離れた所に、新たに家を買って、カフェ兼食料品屋をはじめた。

そしてこの頃から、父と時代の流れのあいだに、そして勉強がよく出来て、いつも部屋で本を読んだりしてすごすようになった「私」とのあいだに精神的な溝が出来るようになる。

そして「私」が師範学校に入って一人で住むようになって、初めて付き合っている男性を連れて両親のもとに帰ったときの様子は、学歴がなく、ただでさえ自分の言葉遣いがおかしいのではないか、人前でみっともない真似はできないと思っている父の緊張した様子がリアルに描かれている。

この小説を読んでいると、ちょうど20世紀の70年間くらいを生きてきた普通のフランス人、学歴もなく財産もなく、身一つでこつこつと働いてお金をため、自分たちが生活していく程度の家を買い、たまにしかヴァカンスには行かず、しかし教育費無料という政策のおかげで子どもを高学歴者にしつつも、一緒に暮らしていくという喜びは得られずに、死んでいく、普通のフランス人の姿が、個別的な事象を描いているにもかかわらず、普遍的なものとして見えてくるから不思議だ。

意外とだれもこういうものを書いてこなかったからこそ、日本的な私小説のような形式をもっているにもかかわらず、フランスで評価されたのかもしれない、という気がしている。

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「逃避行」

2006年12月05日 | 作家サ行
篠田節子『逃避行』(光文社、2003年)

昨今のペットブームは異常だね。でも逆にみれば、それだけ人間が心の潤いを求めているということなんだと思う。ペットが心を癒してくれるというのはたしかにそのとおりだろう。とくに犬のような、主人に従順系のペットは、育て甲斐がある。良くしてやればやるほど、こちらにその恩返しをしてくれる、そういう動物だから。

私も子どもの頃は、犬も飼っていたし、猫も飼っていた。犬はスピッツ犬で、見かけはかわいいのだけど、すごく気性が荒くて、嫌いだったな。それよりも猫の方が好きだった。冬なんか、机に向かって勉強していると、いつも膝にのって来て寝ていた。それが暖かくてよかった。

でも猫って、ほんとうに好き勝手なときにいなくなって、いつのまにか戻ってきているというような、猫なで声で擦り寄ってくるというようなペットだから、どこまで気を許していいものやらというかんじがする。だから、猫はペットというよりも、勝手にすんでいるという関係みたいになる。

ところが犬の場合はそうではなくて、主人を求めて何千里なんて話もあるくらいに、従順だから、飼い主もそれだけの愛着を抱くようになるのだろう。この小説も、そういうような家族の一員、あるいはそれ以上の関係になったレトリバー犬が、となりの家の悪がきにいじめられて、思い余ってかみ殺してしまい、いられなくなった飼い主の妙子がこのポポを連れて、逃避行にでるというお話である。

長距離トラックの運転手の好意で載せてもらい、東京から信州へ、そして神戸までやって来た「二人」は、かつて「田舎暮らし」がブームだった頃に建てられたが、いまは住む人がいない山の中の一軒家を借りて、暮らすようになる。だがその逃避行がきっかけとなって、ポポの老化と野生化が一気に現れる。妙子は最後までみとってやりたいと考えて、こうして逃げてきたのだったが、年が明けた1月7日に、前年の夏に手術した子宮筋腫のために大量出血し、それを見つけた近所の堤の対応の甲斐なく、死んでしまう。

何十年も連れ添った夫とも、また二人の娘たちとも、心を通わすことなく、ただペットの犬に見取られて死んでいくという、あまりにも現代的な死の姿を描いている。でもなんだか悲しいな。

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つま先走法

2006年12月04日 | 日々の雑感
つま先走法

10Kmくらいを走っているとときどき膝が痛くなることがある。原因は分かっている。高校のときにやった坐骨神経痛がでてくるのだ。腹筋をつければ予防になることも分かっているのだが、生来のしみったれで、どうも腹筋運動を家でやるのが面倒で仕方がない。どうしても三日坊主になってしまう。走っているときにできれば一石二鳥(これが無類にすき!)で一番いいんだがなぁとあれこれ考えた結果、短距離走みたいにつま先だけで走ると体全体、とくに腹筋に力を入れた状態で走るので、走っているだけで腹筋運動をしているようなものだということが分かり、さっそく始めたのが、去年の夏だった。

最初は調子よかった。一週間も続ければ、確実に腹筋がしまってきて、ウェストも細くなっている。いい調子!いい調子!

ところが11月はじめに急に冷え込んだ朝に、これをやっていたらふくらはぎが痛くなった。筋肉離れである。いままでなったことがなかったので、そのうち痛みも治まるだろうと高をくくって走りつづけたのがよくなかった。次の日はとてもじゃないが走れない。結局、この年は翌年の3月までウォーキングだけに徹して、暖かくなってからそろそろとジョギングを復活した。

そして今年も寒くなった頃にまた肉離れがきた。こんな調子で寒くなる度に肉離れをおこしていたんではいかんなと反省し、これまた考えた末、肉離れを起すのはストレッチが足りないこと、筋肉そのものをつけてやることも必要という結論に達し、走る前にストレッチをするようになり、また魚の白身(ツナフレークなど)を食べるようにした。それからというもの、肉離れはまったく起きなくなった。

そしてつま先走法も、走り始めの初っ端からやるんではなしに、5kmとか6Kmとかを走ってから、最後の1Kmくらいをつま先走法で走るようにしている。

月・火は朝が早いのでジョギングは休み、水・木・金と池を2周(一周3Km)して帰ってくると7Kmくらい、土・日は近大病院までの往復10Kmというのが最近のジョギングの日課。

朝一に走るのは、心臓の負担とか血液がどろどろだとか、いろいろ気になることはあるけど、やっぱり走った後が爽快で、一番いい。

まだお腹の肉はたるんでいるけど、まぁこれからだな!

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「セックスレスの精神医学」

2006年12月03日 | 自然科学系
阿部輝夫『セックスレスの精神医学』(ちくま新書、2004年)

ついこのあいだまでけっこう元気はつらつだったので、結婚して3年も経つのに5回しかしたことがないだとか、妻の体に触るのもいやだというような、セックスレスなんて、信じられないと思っているので、いったいどんなことからそういうことになるのだろうと思って、読んでみたわけです。

結論が言えば、やっぱ現代病だね。昔は肉体労働が主だから、たしかに体は疲れているけど、精神は疲れていないわけで、元気はつらつで、こんなセックスレスなんて考えられなかったのだろうね。人間関係からくるイライラもなければ、パソコンが思うように処理できずに時間ばかりがたって仕事が進まないというようなこともなかった。すべて手書きだったわけだけど、そのぶんやることはスッキリしていて、やればやっただけの成果が目に見えたのかもしれない。

いまはそうじゃないから、仕事での疲れが精神的だから、その後で家に帰ってまで、妻とあれしてこれしてという手順を踏んでセックスするということが面倒で仕方がないという夫がいても不思議ではないね。

私はそれ以上に怖いなと思うの、結婚する前はそんなことなかったのに、結婚して家族ということになると妻が母親とか姉妹と思えて、近親相姦をするみたいで、性欲がなえてしまうという男が多いらしいことだ。いったいどこからそんなことをイメージするようになるのだろう。一時期、冬彦さんというマザコンのドラマが流行ったが、それとも違うのだろうな。

いずれにしても、現代社会に生きる人間がますます現実から遊離してヴァーチャルな世界に住み、現実に対応できなくなっていくようなことが原因になっている出来事が増えてきているような気がする。ゲームの世界しか知らない、ゲームの世界が自分の人生修行と思っているような子どもたち。まともに言葉を交わして買い物をするということさえもできない子どもが増えているという投書を読んだこともある。

私のような世代はそういうものがなかった時代に人間形成の時期を生きてきたので、ヴァーチャルとそうでないものとが区別できるし、ヴァーチャルの面白さもそれなりに体験できるのではないかと思うのだが、生まれてからずっとヴァーチャルの世界を本当の世界のように思って人間形成をしてきた現代の子どもたちは、現実の世界のほうを奇妙に思ってしまうのではないだろうか。

パソコンなんか小学生にやらせるものではないと思う。高校生くらいになってからで十分だ。第一に漢字が書けなくなる。漢字は手で書かないと絶対に書けなくなる。いわんやまだ漢字を知らない子どもの場合には、読めるようになっても書けるようにはならない。中学校までに漢字をきちんと書けるようにして、その上で高校生くらいからパソコンを使うようにすればいい。パソコンなんかすぐに使えるようになるのに、いったいなにを考えて字もまともに書けないし読めないような子どもたちにパソコンなんか与えるのだろうか?きっとビル・ゲイツの陰謀に違いない。

話がずいぶんと逸れてしまったが、ようするにセックスレスというのは現代病の一つなのなのではないかということだ。

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「ガール ミーツ ボーイ」

2006年12月02日 | 作家ナ行
野中柊『ガール ミーツ ボーイ』(新潮社、2004年)

合コンで知り合って数週ヵ月後にはできちゃった結婚をしてしまい、子どもが4歳になるかならない頃にその夫が蒸発してしまった田口美世の話。

母子家庭だけど、6歳になって小学校に上がった息子の太朗は素直でいい子だし、下の階にすむフリーライターの杏奈は夏休みのあいだとか一人で太朗がいるあいだに気にかけてくれるし、高校からの友人の牧子も週に一回程度はおいしい料理を作りに来てくれるし、太朗や友人たちと幸福な日々を送っている彼女の日常生活のあれこれが綴られているだけの話で、なにか人生についての深遠な考察があるわけでもないし、あるいはそういうものでなくてもそういうものを考えさせる出来事なんかが起こるわけではない。

そういう意味では、なんか裏切られた感じがする。なんか田口ランディとか角田光代とか前川麻子の『これを読んだら連絡をください』なんかを予想していたのに、彼女たち特有のどろどろしたものやだらしな系や衝動系どころか、なんだかまっとうな人生を過ごしているよというような、「私の人生報告」みたいなものを読まされたので、正直言って、がっかりだった。

最後に、太朗が帰宅予定の時間になっても友達の家から帰ってこないので、最初は落ち着いて探していた美世も最後には落ち込んでしまうが、学校に電話しようとしたそのときに太朗が帰宅する。だが彼は美世の顔をみようとせず、なにがあったのか本当のことも言わない。別に外傷のようなものはなさそうだが。というところで「おお!やっとひと波乱あるか!」と色めきたったのに、なんや!蒸発していた父親(美世の夫)と食事をしていた
だけのことだったのだ。けっきょく、最後もがっかりだった。


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