読書な日々

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『さらば食料廃棄』

2013年07月19日 | 評論
クロイツベルガー『さらば食料廃棄』(春秋社、2013年)

世界で廃棄されている食料は3分の1に、とくに大都市圏では半分が捨てられているという。私もうすうす感じてはいたことだが、こんなに酷いとは思わなかった。

どこで?もちろん生産段階から廃棄は始まり、大型小売店で、そして家庭で廃棄される。
曲がったキューリはだめ、形の悪い果物はだめ、二股になった大根はだめ、などなど、バイヤーから拒否されると思われるような農産物は、そのまま畑に捨てられる。

売れ残った弁当どころか、まだ賞味期間が来ていない食品も、スーパーの棚から早々にピックアップされて、廃棄される。それどころか、箱のなかに一個でもカビが生えた果物があったら、箱ごと廃棄。

一個買ったらもう一個おまけしますよ、という売り文句に誘われて要らないものまで買い込んだり、賞味期限と消費期限の違いもよくわからないから、とりあえず期限の過ぎたものはすてちまおう、ってわけで、冷蔵庫からゴミ箱送りになってしまう、数々の食べ物。
こういうものが積もり積もって全生産物の半分が捨てられてしまうというのだから、世も末だ。いったいどこに問題があるのだろうか?どうしたら、もっと効率よく、生産そのものを抑えることができ、それによって消費エネルギーを減らして、持続可能な社会を作れるのだろうか?おまけに、他方では餓死する貧困層が大量に存在するというのに。

私は昔から、諸悪の根源はスーパーにあると思っている。農業生産者に、こんなキューリはだめ、こんなトマトはだめといって、農産物の味や安全性とは別に、見た目だけで選別することを強要するのもスーパーだし、消費者に要らないものまで買わせるのもスーパーだし、もちろん売れ残った弁当を廃棄してしまうのもスーパーだ。おまけに、だれがこんなエスニックな果物を買うのというようなものを、たんなる客寄せのためだけに置いて、その費用は売れ筋の商品の代金に転嫁しているのもスーパーだ。

個人商店なら、だいたいの商品の販売可能量が読めて、できるだけ売れ残りを少なくして、万が一売れ残ったら、それは自分の家で消費するということができるが、大型スーパーは、そんなことが不可能だ。それに棚に商品がつねに一杯ないと見た目が悪いというのだから、スーパーある限り、大量廃棄はなくならないだろう。

もちろんかつてのソ連の計画経済のように、必要な物しか生産しない、というか、生産できたものしか消費できないというのも困る。諸悪の根源は、資本主義的な大量生産、大量販売にある。

世界の食料廃棄を主題にした映画ができたらしい。そのサイトはこちら。
また予告編をYoutubeで見ることもできる。こちら




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