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『「星の王子さま」をフランス語で読む』

2016年02月04日 | 評論
加藤恭子『「星の王子さま」をフランス語で読む』(ちくま学芸文庫、2000年)

『星の王子さま』を23年も上智大学で教えてきたという著者が、この有名な本を、フランス語文法の解説を織り交ぜながら、読解していくという内容に興味を惹かれて読み始めたが、その内容に驚いた。おいおい、そんな文法説明していいのか、という突っ込みどころが満載なのだ。

「動詞はdireの直説法半過去形のdisaitです。言っていた言葉の内容は?「どうぞ、ヒツジの絵を描いて」でした。もしこれを直説法単純過去にしますと、Elle ditですが、「ヒツジの絵を…」を一度言ったことになりますし、過去のいつかを限定しなければなりません。でも半過去ですと、回想の中の漠然とした過去で、しかも何回か言っていた可能性があるのです。」(p. 46)

何?この説明?「半過去ですと、回想の中の漠然とした過去」ってどういう意味だろうか?半過去形は、ここではたんに私がこの声で目を覚まされたときに、聞こえていたという意味、つまり複合過去形で明確に示された過去のある時点で進行中の行為を意味しているのであって、「回想の中の漠然とした過去」ではない。「しかも何回か言っていた可能性があるのです」という説明がその後についているが、これもどういう意味なのか理解できない。

フランス語の動詞、とくに過去時制は使い方がなかなか難しい。とくに複合過去形と半過去形の使い分けがそうだ。これをこの著者は複合過去形は「点の過去」、半過去形は「線の過去」と説明しているところが、まず本質を見誤っていることを如実に示している。スペイン語文法の影響なのかどうか知らないが、こういう説明の仕方をする人がいるが、そういう人たちは両者の違いを分かっていないのだろう。例えば次のような日本文は「点の過去」とか「線の過去」という説明だと、同じように半過去形で表すことになるだろうが、実際には、①は複合過去形、②は半過去形になる。

①「私は二年間東京に住んでいた。」
②「私はその頃東京に住んでいた。」

両者の違いは、(ここが説明しにくいところだが)過去のことを物語る話者の視点が現在にあるのが複合過去形で、過去のある時点にあるのが半過去形というところにある。

複合過去形は現在から過去をふりかえって回想しているイメージだ。だから東京に住むということがすでに終わったこととして、「二年間住んでいた」と言えるのだ。

他方、半過去形は、フランス語ではImparfaitといって、未完了を意味する。過去形なのに未完了?と変に思うかもしれないが、視点が現在ではなくて、過去のある時点に移っており、その時点でその行為が未完了、つまり進行中だということだ。言い換えると、過去のある時点で現在進行していることを意味する。過去の行為が行われている現場(現在)に立ち会っているイメージだ。

だから、半過去形では「二年間」という表現は一緒に使えない。「その頃」という過去の時点ではいつまで東京に住むのか分からないはずだから。過去の行為の現場にいるというイメージから、半過去形は時制の一致で、過去における現在を意味することができる。よくテレビニュースのイベントの報道なので、「参加者たちは…を楽しんでいました」というような言い方をするが、これなどもその現場にいましたよということを強調したいがためだろう。

私はフランス語文法の専門家でもなんでもないので、専門家の説明を読みたければ、京大の東郷雄二さんという人の解説を読んでもらいたい。こちら

つぎに65頁で接続法の説明のなかでMais ou veux-tu qu'il aille!という文の解説がある。まず冒頭のMaisを接続詞として、つまり英語のbutとして説明しているが、これは文章全体を強調する副詞だ。だからあえて訳すとすれば、「しかし」とか「だって」とかではなくて、「まったく」とか「一体」というような訳になるはずだ。事実、説明の後段では、67頁では「一体」と訳しているが、接続詞だという著者の説明からは理解不可能な訳である。

このMaisについて、99頁にはさらに奇妙な説明が出てくる。Maisは「しかし」だが、nonやouiとくっつくと、「しかし」の意味は消えて、強調の意味になると説明している。別にnonやouiだけではなくて、文章全体にくっつけても同じことが起こる。「しかし」の意味が消えるのではなくて、同じMaisが前者は接続詞、後者は副詞という別の品詞として使われるということがこの著者は分かっていないのだろう。そんなことは辞書を見れば分かることだが。

さらに重大な間違いは92頁に出てくる。それは第五章冒頭のCa venait tout doucement, au hasard des reflexions.という文章の解説である。著者は、au hasardとdes reflexionsを切り離して、前者を「偶然に」と訳し、後者を「熟考から」と訳している。にもかかわらず、後者のdesを複数の不定冠詞だと書いているが、著者が言うように「から」と訳するのなら、desはdeという前置詞とles reflexionsの定冠詞lesが結合したものであるはずで、不定冠詞複数形などであるはずはない。

ここはau hasard de +les reflexionsだろう。au hasard deは「~に任せて」とか「~のままに」というような意味で、主語のcaは、その前に「一日一日と、彼の星のことや、旅立ちのことや、旅行のことについて何かしら学びつつあった」とあるので、星の王子さまについての理解のことを指している。したがってここは「それらのことについて考えているうちに、どうにかこうにか分かるようになってきた」というような訳になるだろう。

いずれにしても何がわかってきたのかといえば、「私」が知らなかった星の王子さまのことが分かってきたわけで、ここでの「考察」の主体は「私」以外のものではないはずだ。ところが著者は、「考察」の主体は「私」と「星の王子さま」の両方だと言う。二人して何か深淵なことを考えていると説明したいようだ。

この著者も書いているし、多くの訳者も感じていることだろうが、フランス語で書かれたニュアンスを日本語に上手く出すことはむずかしいことだと思う。もしこれが翻訳なら、私は目くじらを立てることもないだろう。翻訳はそれで一つの世界を作り出しているのだから。だが、この本は翻訳ではなくて、解説である。その解説が間違っているとすれば、それは問題だろう。

1984年に単行本として出版された本書は、2000年に文庫本になって、現在も読まれているようだ。アマゾンのレビューは好意的なものがほとんど。こんなことでいいだろうか。




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