読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「戦線を拡大せよ」

2006年11月17日 | 現代フランス小説
Michel Houellebecq, Extension du domaine de la lutte, J'ai lu 4576, 1994.
ミシェル・ウエルベック『戦線を拡大せよ』(モーリス・ナドー、1994年)

日本の出生率が著しく低下していることが新聞報道をにぎわすことがしばしばある。その原因はいろいろあるにしても、これだけ性産業が数兆円もの巨大市場となっているにもかかわらず出生率の低下が止まらないということは、つまりセックスが子孫を残すためではなく、快楽のために行なわれているということなのだと考えてもいいのだろうか。そんなこと当たり前でしょうがと、とこからか突っ込みがありそうな気がするが、私がいいたいのはセックスの目的が子どもを作るということでなくなり、快楽のためということになれば、当然のこととしてその相手選びの基準も変わってくるだろうということだ。

子どもを作って育てるという目的があれば、男の側からであれ女の側からであれ、それにかなった配偶者を選びたいから、それなりの基準が出来上がる。安産型の体型、たくさんの子どもを産んでもへこたれない体型、たくさんの子どもを育てても疲れない体力、子どもへの限りない愛着などが、男性にたいしても女性に対しても求められる。

だが子どもを作ることは念頭になく、セックスから得られる快楽が主たる目的ということになれば、容姿端麗、背が高く、ハンサム、筋肉質、何を着せてもかっこいい、高収入というようなことが基準となるだろう。

でもなんだかんだ言っても、結局は二人の問題にすぎない。付き合っていこう、さらに進んで結婚生活を送っていこうという二人のもっている目的と基準が合致していさえすれば、なんの問題もない。現に、私の知り合いにも、二人とも背は低く、寸胴型、顔はぶさいく、給料もそんなに自慢できるほどのものじゃないという夫婦がいてるが、仲むつまじく暮らして、子どもも二人くらい大事に育てているといる。彼らは彼らで彼らなりの人生の目的や生活の基準をもって完結した人間関係を作り上げていて、それで幸せなのだから、それはそれでいいのだ。人がとやかく言うことではない。

問題は、年収はそこそこあるけれども、背が低く、ぶさいくで、寸胴型(いや、だるまさん型)というような絶対に女にもてないというか、容姿端麗な女にはもてないような男が、子どもを作って立派に育てることが人生の目的なんてことはまるっきり考えず、いい女ときもちのいいセックスできなれば生きた気がしないと考え、容姿端麗な女にもてたいと願望することにある。努力でできることとできないことがある。しかしこういう人たちにとってはそんなことは理解できない。どうしていい男はなんの努力もしていないのにいいメができて、ぶさいくな男はどんなに努力しても意味がないなんていうような不合理なことが通るのだ。どうして神はそんな不平等を不合理を社会の根底にすえたのだ。まさにその追求たるや創世記にさえ遡ることになりかねない。

しかし現にもてない男の非情な現実は現実としてあり、それはいかんともしがたいので、結局は絶望に陥ってしまうことになる。だがこういうことになってしまうのは全てのぶさいく男の必然ではないから不幸なのだ。問題はそうした理不尽に耐えられない「感性」と「判断基準」をもったことが不幸なのだ。

だがよく考えてみると、こうした不幸は有史以来ずっと存在したわけではなくて、ごく最近の病理だということが見えてこないだろうか。高度に情報化されながら、一方的で偏った情報だけが大量に流され、自分の基準で判断しているように見えながらじつは判断さえもが操作されているというような、高度情報社会となった現代に特有の病理ではないかとおもうのだが。

ミシェル・ウエルベックの『戦線を拡大せよ』という小説の主題もこんなところにあるように思う。主人公はコンピュータソフトの会社で教育営業の部署にいる。農業省の出先機関から受注をうけたソフトが完成しその使い方を教えていくという仕事である。同僚のティスランとルーアンやラ・ロッシュ・シュール・イオンなどに出張をする。

ティスランはまさに寸胴型のぶさいくな男でまったくもてない男。「僕」は同棲していた女に逃げられた男。出張先で、ティスランの女探しに付き合うがすべてが失敗する。自分を捨てて逃げた女にたいする腹いせの気持ちもあり、「僕」はティスランに女をナイフで脅かして「支配」してレイプすることをそそのかす。ティスランはその気になり浜辺に男と出て行った女を追うが、結局なにもできず(その男女のセックスを見て自慰をしただけ)に戻ってきた。次の日、彼は車ごとトラックに突っ込んで死んでしまう。

「僕」自身もおかしくなり、死の危機を迎えるも、なんとかそれを避けてきたが、ついに上司のまえで暴言を吐き、自分が精神病であることを告げて休職して、精神病院に入る。

女にもてないというか、自分勝手に作り上げた理想像の女にもてないということがそんなに大層なことなのだろうかという思いが、どこかにあるのだろう。この手のことを主題にした小説にはどうも主人公の苦しみが本気に思えないのだ、残念ながら。

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