Herve Guibert, Le protocole compassionnel, Folio 2481, 1991.
エルヴェ・ギベール『憐れみの処方箋』(1991年)
36歳にしてエイズで死んだ作家ということで有名。哲学者にしてホモセクシャルのミシェル・フーコー、女優のイザベル・アジャーニなどと親しい友人の一人であった。写真家としても有名。作家としては自伝や自伝をもとにした虚構などが中心で、88年にエイズの告知をされる以前は、同性愛者としての「禁断」の世界を描くことが中心だったが、エイズ以降は1990年の小説『僕を救ってくれなかった友へ』で、エイズに感染した絶望のなかでエイズと闘う自分自身の姿をさらけ出すとともに、同性愛やフーコーやアジャーニとのスキャンダラスな関わりを暴いて、衝撃を与えた。91年12月、36歳の誕生日の直前に死去。遺志によりエルバ島に埋葬される。
この作品はエイズに感染して二年後の90年の7月4日から一ヶ月あまりの闘病生活を描いている。現在ではエイズウィルスの増殖を抑える薬が各種開発されており、インターネットで調べても20種以上数えられるが、そのほとんど1995年以降のもので、この小説の90ねん頃はまだほとんど開発されていなかった。そのためにこの小説でも、友人のジュールがある日の明け方にDDIをたくさん持ってきてくれる場面から始まっているが、AZTと略記されるアジドチミジンではあまり効果がなかったために、新たに開発されたDDIつまりジダノシンを飲んでいたが死んでしまったブラジル人のところから残ったDDIをジュールがもらってきてくれたという話なのである。だがこのDDIもまだはっきりした効果が分かっていないだけでなく、アメリカではどの程度の量飲んだらいいのかも分からずに闇で売買がされて、そのために多数の死者を出しているような薬だったのだ。だが「僕」はこの薬を飲むようになって病気の進行が止まったような気持ちになる。
この小説はまたさまざまな検査の様子も詳細に描いている。各種の血液検査、エコー検査、レントゲン検査などなど。あるいは胃カメラを飲んだりということもある。健康なわれわれでもあれこれの検査を受けるとそれだけで病気になったような気にもなるし、検査が逆に健康体を傷つけてしまうということだってある。「僕」の場合、ただでさえ、筋肉の萎縮というのか老化というのかによって、一度横になるとなかなか起き上がれない、椅子に座ると杖のようなものがないと立ち上がれないような状態であるのに、これだけの検査をすることがいかに苦痛以上のものであるか予想がつく。だが「僕」は美人医者のクローデットに目をつけ、彼女の様子を細かに観察し、あれこれと妄想をいだくことで、その苦痛から一時でも逃れようとする。まぁよくあることだね。女医とか看護婦の姿ってどこかしらエロチックなところがあるからね。存在自体がエロチックというか。
昨日までできていたことができなくなったり、タクシーやバスへの乗り降りが年寄りのように困難になったり、夜の街角で死にかけた人間を見て、自分の行く末を思って絶望感に陥ったり、たまたま下りたマンションの地下にある倉庫に3時間も閉じ込められてしまって、このまま誰にも知られずに死んでいくのかと哀れな気持ちになったりと、さまざまな日々の出来事が綴られているが、そのなかで光明のように輝いているのはイタリアの小さな村への小旅行の思い出である。若干とはいえ体調も良くなったので、女医のクローデットから許可が出て、バカンスを過ごしにいったというわけなのだが、体調の状態が精神の状態も左右するいい例だろう。
最後は、彼が死の直前まで執念を燃やしていたという、エイズにおかされてやせ細っていく自分の身体をカメラに収めていくという仕事を始めるところで終わっている。
あまりエルヴェ・ギベールのことを知らないで、この本を読み始め、読みながらいろいろ調べていったのだが、この本自体は、それほどの価値のあるものとは思えないが、今後も『僕を救ってくれなかった友へ』など問題作といわれているようなものを読んでみたいと思う。
エルヴェ・ギベール『憐れみの処方箋』(1991年)
36歳にしてエイズで死んだ作家ということで有名。哲学者にしてホモセクシャルのミシェル・フーコー、女優のイザベル・アジャーニなどと親しい友人の一人であった。写真家としても有名。作家としては自伝や自伝をもとにした虚構などが中心で、88年にエイズの告知をされる以前は、同性愛者としての「禁断」の世界を描くことが中心だったが、エイズ以降は1990年の小説『僕を救ってくれなかった友へ』で、エイズに感染した絶望のなかでエイズと闘う自分自身の姿をさらけ出すとともに、同性愛やフーコーやアジャーニとのスキャンダラスな関わりを暴いて、衝撃を与えた。91年12月、36歳の誕生日の直前に死去。遺志によりエルバ島に埋葬される。
この作品はエイズに感染して二年後の90年の7月4日から一ヶ月あまりの闘病生活を描いている。現在ではエイズウィルスの増殖を抑える薬が各種開発されており、インターネットで調べても20種以上数えられるが、そのほとんど1995年以降のもので、この小説の90ねん頃はまだほとんど開発されていなかった。そのためにこの小説でも、友人のジュールがある日の明け方にDDIをたくさん持ってきてくれる場面から始まっているが、AZTと略記されるアジドチミジンではあまり効果がなかったために、新たに開発されたDDIつまりジダノシンを飲んでいたが死んでしまったブラジル人のところから残ったDDIをジュールがもらってきてくれたという話なのである。だがこのDDIもまだはっきりした効果が分かっていないだけでなく、アメリカではどの程度の量飲んだらいいのかも分からずに闇で売買がされて、そのために多数の死者を出しているような薬だったのだ。だが「僕」はこの薬を飲むようになって病気の進行が止まったような気持ちになる。
この小説はまたさまざまな検査の様子も詳細に描いている。各種の血液検査、エコー検査、レントゲン検査などなど。あるいは胃カメラを飲んだりということもある。健康なわれわれでもあれこれの検査を受けるとそれだけで病気になったような気にもなるし、検査が逆に健康体を傷つけてしまうということだってある。「僕」の場合、ただでさえ、筋肉の萎縮というのか老化というのかによって、一度横になるとなかなか起き上がれない、椅子に座ると杖のようなものがないと立ち上がれないような状態であるのに、これだけの検査をすることがいかに苦痛以上のものであるか予想がつく。だが「僕」は美人医者のクローデットに目をつけ、彼女の様子を細かに観察し、あれこれと妄想をいだくことで、その苦痛から一時でも逃れようとする。まぁよくあることだね。女医とか看護婦の姿ってどこかしらエロチックなところがあるからね。存在自体がエロチックというか。
昨日までできていたことができなくなったり、タクシーやバスへの乗り降りが年寄りのように困難になったり、夜の街角で死にかけた人間を見て、自分の行く末を思って絶望感に陥ったり、たまたま下りたマンションの地下にある倉庫に3時間も閉じ込められてしまって、このまま誰にも知られずに死んでいくのかと哀れな気持ちになったりと、さまざまな日々の出来事が綴られているが、そのなかで光明のように輝いているのはイタリアの小さな村への小旅行の思い出である。若干とはいえ体調も良くなったので、女医のクローデットから許可が出て、バカンスを過ごしにいったというわけなのだが、体調の状態が精神の状態も左右するいい例だろう。
最後は、彼が死の直前まで執念を燃やしていたという、エイズにおかされてやせ細っていく自分の身体をカメラに収めていくという仕事を始めるところで終わっている。
あまりエルヴェ・ギベールのことを知らないで、この本を読み始め、読みながらいろいろ調べていったのだが、この本自体は、それほどの価値のあるものとは思えないが、今後も『僕を救ってくれなかった友へ』など問題作といわれているようなものを読んでみたいと思う。