読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「ロリヰタ」

2006年11月07日 | 作家タ行
嶽本野ばら『ロリヰタ』(新潮社、2004年)

深田恭子と土屋アンナ主演の『下妻物語』で有名な嶽本野ばらの小説。そのセンスにはちょっとついていけそうにないと思っていたが、こんな面白い話を書くってどんな人かなと興味があったので、図書館で偶然見つけて、さっそく借りてきた。

面白かった。何が?

第一に、「僕」は作者の嶽本野ばらと同一人物だと考えていいと思うのだが――だからといって、この小説で語られていることがすべて実際に起こったことだと考えるほどバカじゃない。「僕」の考え方は作者の考え方と同じだという意味だ。でなければ彼がこんな小説を書くはずがない――、その哲学のじつにしっかりした考え方が面白かった。自分はロリータファッションが好きなのであって幼児性愛でも同性愛者でもないことを口を酸っぱくして語らなければならないほどの世間の偏見には辟易しているが、それを放っておけないで、自分の姿勢をきちんと説明するその内容は、バカな哲学者よりもよほど筋が通っているし、深くものを考えている。

べつに人に迷惑かけるわけじゃなし、どんなファッションを好もうがそれぞれの人の勝手だ。しかもそれらが、たとえば鍵十字のように大量虐殺のナチズムとかと結びつくようなものではなくて、たんにマンガのファッションから派生したものであったりするのならなおさらである。そしてそのファッションについては自分なりの基準を持っている。

第二に、自分の行動原理をきちんと自分の言葉で説明できること。これは第一の面白かった点につながることだが、たとえばファンなどの女性からセックスの誘いがあったときの自分の対応の仕方を自分の恋愛感にもとづいて説明することは、立派だと思う。たぶん自分の行動原理をきちんと分かっていない人間が、あるいはわかっていてきれごとの言葉で粉飾する人間ばかりだからだろう。自分に体を提供することで芸能人として優遇してもらおうという意図があって自分をセックスに誘うような場合には、自分にはそういうつもりはないが、それでもいいのかどうかを確認してからというのは、その潔さに敬服する。

第三に、恋愛については相手に対する敬意がなければ成り立たないという考えの持ち主であること。だからその前提がきちんとクリアーされていれば、相手が小学生でさえも恋愛の対象になることが、この小説の主題になっている。

この人は自分なりのきちんとした基準というものをもっている。だから小説の中で小学四年生の子から、一見するとほんと下らないような質問を受けても、明確に答えることができる。

もちろん私自身は難波の駅なんかでたまにロリータファッションをみると「ギョっと」なるが、これからはちょっと見方も変わるかもしれない。それだけの哲学があるんだ、自分なりの世界をもっているんだということがこの小説で分かったような気がする。

普通からはずれた審美眼・美的感性をもっている人たち――だからといってけっして人の価値観に口をはさんでくるわけでもなければ、人を攻撃するわけでもない人たち――への偏見というのはなんなのでしょう。それはもうすごいものがあるのが日本という国。みんな同じでなければだめという感覚は恐ろしい。そういう日本の現実に対して、嶽本野ばらの姿勢はほんとうに素晴らしいものがあると私は思う。

それにこの人、「やれやれ、と村上春樹風に...」などとけっこう人を面白がらせるツボも心得ている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする