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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

敬語の役割

2024年02月17日 | 日記

「日本人のYESはなぜNOか?」(岡本浩一著)に興味深い事が記されていました。簡単に言えば、日本語に敬語が多いのは、人間関係を保つため。欧米では契約社会なので、言葉でなく契約で関係性が結ばれるので、敬語を必要としないというものです。本からその部分だけ転載します。

 

社会的スキルが発達している欧米文化

 

 日本語の場合、敬語は、文法の根幹の一つと見ることができる。尊敬語、謙譲語、丁寧語の区別が歴然とあり、それらは、人称代名詞を必要としないほど、文法のなかに深くくいこんでいる。

 ところが、中世の英語やラテン語の「敬語」の現象は、もっと挿入的で(例えば、フリーズ)を挿入するなど)、付加的な要素にすぎない。少なくとも、接頭語、接尾語、動詞、助動詞など、文法のありとあらゆる部分を、敬意の有無によって調整するような形態ではない。これは、ヨーロッパでは、日本に比べると、上下関係を言語で始終確認し続ける必要が薄かったことを示しているように思われる。その必要がなぜ薄かったかというと、契約という概念があったからだと思えてならないのである。

 契約で上下関係がきっちり定められていれば、始終敬語を使っていなくても、どちらが上がということがはっきりしている。そして、契約関係に含まれていない関係では、もともと敬う必要がない。アメリカの役所で敬語が見られないのは、上下関係がシステムの上ではっきりしていて、やっている仕事の外で、つまり、会話のなかで、いちいちどちらが上かを確認する必要がないからだとも言える。これが、契約概念とでも言うべきものである。

 日本の主従関係は、契約関係でなく、属人的関係だから、仕事に直接関係のない部分でまで常に、上下関係をはっきりさせておく必要があるのだ。

 この構造が、敬語は必要だが、敬語以外の社会的スキルをあまり必要とせぬ社会を生んだ。したがって、私たちは、伝統的に社会的スキルの弱い文化を受け継いでしまっているのである。

 

-敬語的な人間関係のルール

 日本のようにコンスタントな敬語使用があれば、社会的スキルは、敬語のない場合の三分の一くらいですむ。これが敬語の大きなメリットである。敬語がある分、社会的感受性が低くても、あぶなげなく人間関係が運営できるのである。

 近代以降、身分の上下などの概念が希薄になり、敬語的な人間関係そのものの重要度は低くなったかも知れない。しかし、社会的スキルが伝統的に未熟な私たちは、その分、人間関係を敬語的に規定する必要を感じることになったのではないか。そこで、上下関係を規定すべき社会的関係がない場合でも、なにかの目安をみつけて、敬語的関係にするほうが、社会的スキルの上で楽だという構造をもつようになったのではないだろうか。だから、本当は敬語的人間関係が不必要な場合でも、敬語的人間関係のルールを用いようとすることになるのである。

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