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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「もう死なせてほしい」:と言われたら

2024年02月24日 | 苦しみは成長のとびら

『がんになった人のそばで、わたしたちにできること: 「幸せな生」を支えるための10の講義』(2023/12/28・西智弘著)から、「もう死なせてほしい」:と言われたらの部分だけ転載します。

 

コミュニケーションの盤面に「もう死なせてほしい」といわれたとき、どういった言葉を置き返すのが「定石」なのでしょうか.医師や看護師の教科書や国家試験では、こういった場合では「死にたいと思うくらい、おつらいのですね」と返すことを解答、つまりは定石として取り扱っていることが多いのですが、ことはそんなに単純なのでしょうか。

 

作家で医師の帚木蓬生さんは、『ネガティブーケイサビリティ答えの出ない事態に耐える力』(朝日新問出版)のなかで、ネガティブ・ケイパビリティとは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」をさします。

 あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいること、ができる能力」を意味します。

 

先に述べたように、「死」の概念ひとつとっても、ポジテエブ・ケイパビリティによって「解決できる」類のものではありません。(略)ポジティブ・ケイパビリティで立ち向かっていこうとすれば、燃え尽きてしまうか逃げ出すか、または「この程度でいいだろう」と、本質的な問題に向かないような表層の理解と解決策の提示によってお茶を濁すのみになるでしょう。

 その「解決できない不安定な状態」、つまりは「脳が本能的には不快と感じる状態」のなかでも耐えられる力こそが、ネガティブ・ケイパビリティなのです。

 

さて、話を戻して患者さんに「死にたい」と言われたとき、すぐに問題を解決しようとする立場からは、「抗うっ薬だ」「精神科受診だ」と騒ぎ出すことになりかねませんが、ネガティブーケイパビリティを意識できれば、その患者さんのベッドサイドに答えを出さずに居つづけることもできます。次の日も患者さんは「死にたい」と言うかもしれません。でも、今日と同じ日が明日も続くのだとしたら、それは悪いことではないのではないか、とも考えられます。そこで初めて、「死にたいと思ってしまうくらい、おつらいのですね」との言える言葉のを盤面に置ける余地が出てくるかもしれません。

 

「目薬」とは、点眼薬のことではなく、「あなたのやさしい姿は、傍らにいる私かこの目でしかと見ています」の意味です。ネガティブ・ケイザビリティは先にも述べたように、「解決しない=何もしない」ではありません。そうではなく、「親しみとともに過ごそうとしているあなたの時間のほんの一部だけど、私はあなたと時間をともに過ごしますよ。そして、あなたの行く末も、私は見つづけますよ」とい一種の「承認」をここではしているのです。人は、一人では歩くことはできません。ともに歩んでくれる人がいる、自分を見守りつづけてくれる人がいる。その信念かおるからこそ、人は片難のなかを歩きつづけられるのです。

 

「もう死なせてほしい」と言われたとき、僕たちは動揺し、「何かしないと」「何か答えないと」と焦りがちです。しかしそれは、僕たち自身の心の苫しみから生み出されるものであって、患者さんのためのものではありません。そのことをしっかり肝に銘じて、焦らずに深呼吸をして、まずはベッドサイドに座ることから始めましょう。(以上)

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