『宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で』(松岡 幹夫著)からですが、青年期の宮沢賢治自身は、浄土真宗の信者でした。以下、転載です。
二百年来続いた真宗門徒の家庭に生まれ育った賢治は、伯母の手ほどきで四、五歳の頃から「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという。信仰心に厚く、十六歳の時には「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と、父宛ての手紙に記すほどであった。
幼少期の賢治の思惟傾向は家庭の真宗信仰に深く根ざしており、その言動には絶対他力信仰の影響が色濃くにじみ出ていた。真宗の絶対他力信仰については改めて論ずるまでもないが、法華経信仰に入る前の賢治も真宗門徒として「念仏者には仏様といふ味方が影の如くに添ひてこれを御護り下さる」(同前)ということを堅く信じていた。
また賢治は、父・政次郎から肯定的な自己卑下の精神性を受け継いだといえる。父・政次郎は真宗の強信者で仏教思想にも造詣が深く、自己の罪業の徹底的自覚による悪人正機的救済を確信し、罪深き人間社会の現実をありのままに諦観しようとした。政次郎が暁烏敏宛に送った書簡集が今日公開されているが、それをみると、政次郎は自身を「妄念ノ結晶ナル罪悪ノ凡夫」「愚病執着ノ悪凡夫」「久遠の迷習により三毒に酔ひ倒れたるが今の身」「仕様のない僑慢な手の付けられぬ泥凡夫」等々と表現し、自己卑下と懺悔を繰り返している。だが政次郎は努力精進を通じて罪悪深重の自己から更生しようとは考えず、かえって「如来の御慈悲我等の罪体を照かことを確信するがゆえに、如来による他力救済を前提とした、いわば肯定的な自己卑下に徹していた。
すなわち政次郎の信仰は、「悪性其まま不相応の御恩の中に無事日暮致し居ります」と彼が記したごとく、罪深き自己がそのまま如来の大慈悲に光被せられている日常を噛み締め、報恩感謝に生きるというものだった。
そしてこのような父の下、幼い頃から物を食べるにも恥ずかしそうに食べたという賢治も強い自己卑下意識を持つようになった。青年期に入ると、むしろそれを肯定的に表明していった。大正七(一九一八)年、二十二歳の賢治が発表した『復活の前』という作品では、父の師である暁烏の言が肯定的に紹介されるとともに、賢治自身による「私は馬鹿です、だからいつでも自分のしてゐるのが一番正しく真実だと思ってゐます」といった主張が記されている。またその頃、彼が友人に宛てた書簡の中には「『私は馬鹿で弱くてさっぱり何もと昨所がなく呆れはてた者であります。』と云ふ事をあなたにはっきりと申し上げて置きます」という記述もみられる。
さらに国柱会の信行員となってからの賢治は、大正十(一九二二年に書いた童話『どんぐりと山猫』の中に「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなつてゐないやうなのが、いちばんえらい」との主張を盛り込み、自己卑下を賞賛しつつ肯定する姿勢を示している。同様な思想は、彼の童話『気のいい火山弾』『虔十公園林』でもみてとれる。以上のごとく、肯定的自己卑下は早くから賢治の精神性の重要な一部を形成していた。われわれはそこに、父・政次郎の悪人正機的な精神性が賢治に与えた何らかの影響をみないわけにはいかない。(つづく)
二百年来続いた真宗門徒の家庭に生まれ育った賢治は、伯母の手ほどきで四、五歳の頃から「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという。信仰心に厚く、十六歳の時には「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と、父宛ての手紙に記すほどであった。
幼少期の賢治の思惟傾向は家庭の真宗信仰に深く根ざしており、その言動には絶対他力信仰の影響が色濃くにじみ出ていた。真宗の絶対他力信仰については改めて論ずるまでもないが、法華経信仰に入る前の賢治も真宗門徒として「念仏者には仏様といふ味方が影の如くに添ひてこれを御護り下さる」(同前)ということを堅く信じていた。
また賢治は、父・政次郎から肯定的な自己卑下の精神性を受け継いだといえる。父・政次郎は真宗の強信者で仏教思想にも造詣が深く、自己の罪業の徹底的自覚による悪人正機的救済を確信し、罪深き人間社会の現実をありのままに諦観しようとした。政次郎が暁烏敏宛に送った書簡集が今日公開されているが、それをみると、政次郎は自身を「妄念ノ結晶ナル罪悪ノ凡夫」「愚病執着ノ悪凡夫」「久遠の迷習により三毒に酔ひ倒れたるが今の身」「仕様のない僑慢な手の付けられぬ泥凡夫」等々と表現し、自己卑下と懺悔を繰り返している。だが政次郎は努力精進を通じて罪悪深重の自己から更生しようとは考えず、かえって「如来の御慈悲我等の罪体を照かことを確信するがゆえに、如来による他力救済を前提とした、いわば肯定的な自己卑下に徹していた。
すなわち政次郎の信仰は、「悪性其まま不相応の御恩の中に無事日暮致し居ります」と彼が記したごとく、罪深き自己がそのまま如来の大慈悲に光被せられている日常を噛み締め、報恩感謝に生きるというものだった。
そしてこのような父の下、幼い頃から物を食べるにも恥ずかしそうに食べたという賢治も強い自己卑下意識を持つようになった。青年期に入ると、むしろそれを肯定的に表明していった。大正七(一九一八)年、二十二歳の賢治が発表した『復活の前』という作品では、父の師である暁烏の言が肯定的に紹介されるとともに、賢治自身による「私は馬鹿です、だからいつでも自分のしてゐるのが一番正しく真実だと思ってゐます」といった主張が記されている。またその頃、彼が友人に宛てた書簡の中には「『私は馬鹿で弱くてさっぱり何もと昨所がなく呆れはてた者であります。』と云ふ事をあなたにはっきりと申し上げて置きます」という記述もみられる。
さらに国柱会の信行員となってからの賢治は、大正十(一九二二年に書いた童話『どんぐりと山猫』の中に「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなつてゐないやうなのが、いちばんえらい」との主張を盛り込み、自己卑下を賞賛しつつ肯定する姿勢を示している。同様な思想は、彼の童話『気のいい火山弾』『虔十公園林』でもみてとれる。以上のごとく、肯定的自己卑下は早くから賢治の精神性の重要な一部を形成していた。われわれはそこに、父・政次郎の悪人正機的な精神性が賢治に与えた何らかの影響をみないわけにはいかない。(つづく)
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