本願寺発行の月刊「大乗」10月号が送られてきました。今年の4月~連載している「なるほど仏教ライフ」10月号の執筆原稿の転載です。
「生きづらさ」を感じる人が多いという。この「生きづらさ」という表現は、1990年代後から徐々に新聞紙面上での登場回数を増やし、2000年代後半に大幅に増加して今日に至っているという。令和6年版 厚生労働白書でも、―人々が「生きづらさ」や孤独・孤立を感じざるをえない状況を生む社会へと変化してきたーと指摘されています。「生きづらさ」の内容と原因は、色々と説かれていますが、一つに、インターネットの普及等によって「思い通りになる」という万能感が増長し、逆に「思い通りにならない」現実が「生きづらさ」として実感されることがあるようです。
日常生活の行動や感情の起伏の多くは、無意識のうちに行われています。たとえば「目の前に髪の毛が落ちていたら、なぜ汚いと思うのだろうか」、『身体と境界の人類学』(浮ケ谷幸代著)によると、髪や爪は本来、頭部にあり手の先にあるものです。それが本体から切り離されて、違った形態で目にさらされると、あるべきところにないことから、人に不安や落ち着きのなさを抱かせる。身体から離れた身体の一部、あるべきところにないものとして、「汚い」「気持ち悪い」「居心地悪い」「不安」という思いをもつとあります。本を読みながら「なるほど」と思ったことです。私たちは、無意識の中にある「普通」に支配されています。
無意識下にあるものを意識化する。これは心理学をはじめ、さまざまな分野で研究されていることです。これは浄土真宗においても言えます。無意識下にある普通の一つに、人は思い通りになったことの中に喜びや安心を見いだすことがあります。欲望というギラギラしたものではなく、当たり前の普通のことです。しかしその普通が私を苦しめるのです。
以前、終末期にあるKさんという女性とお会いしたことがあります。Kさんは、手術後の胃がん再発で治療を断念して、訪問ケアを受けておられました。ご自宅にお伺いすると、一方的に子どものときからのことを取りとめもなく語られました。それは、いまの惨めな現実の原因はどこにあるのかといった回想をされているようで、家庭や人間関係のなかに生じている不幸の原因は自分にあったという後悔と、では自分はどうすれば素直な自分になれるのか。諦め切れない悔しさ、やり直せたらやり直したいという思い。こんな思いや後悔を持ちながら死んでいかなければならない不安を語られたあと、私を見つめ「「なぜ、わたしはこんなに苦しまなければならないのか」という問を投げかけてこられました。私は率直に「それはあなたの欲が深いからです」と言いました。それから十分くらい会話をしていたら、突然「わたしはなぜこんなに欲が深いのか」と大きなため息をつかれたのです。
その後、担当の医師からいただいたメールには、「Kさんは、ご家族に看取られて亡くなりました。心の葛藤は最後まで続いていましたが、次第に険しさ、厳しさは和らいでいきました。特に西原様のお話のなかで安心する部分があり、明らかにある種の変化が感じられました」と記されていました。
Kさんを苦しめていたものは、「思い通りになったことのなかに安心する」という無意識の感情であったようです。その無意識の中にある私が明らかになるとき、その苦しみを違う視点で捉えないすことができるようです。
私の中にある最も見えにくいことは「煩悩を具足せる凡夫人」(浄土真宗聖典『註釈版』550項)であるということです。阿弥陀仏の摂収不捨の救いを領受するということは、凡夫である私が可視化されることであり、その凡夫の私を仏と同質の存在と見てくださる阿弥陀仏の智慧と慈悲に開かれて行くことでもあります。
「生きづらさ」を感じる人が多いという。この「生きづらさ」という表現は、1990年代後から徐々に新聞紙面上での登場回数を増やし、2000年代後半に大幅に増加して今日に至っているという。令和6年版 厚生労働白書でも、―人々が「生きづらさ」や孤独・孤立を感じざるをえない状況を生む社会へと変化してきたーと指摘されています。「生きづらさ」の内容と原因は、色々と説かれていますが、一つに、インターネットの普及等によって「思い通りになる」という万能感が増長し、逆に「思い通りにならない」現実が「生きづらさ」として実感されることがあるようです。
日常生活の行動や感情の起伏の多くは、無意識のうちに行われています。たとえば「目の前に髪の毛が落ちていたら、なぜ汚いと思うのだろうか」、『身体と境界の人類学』(浮ケ谷幸代著)によると、髪や爪は本来、頭部にあり手の先にあるものです。それが本体から切り離されて、違った形態で目にさらされると、あるべきところにないことから、人に不安や落ち着きのなさを抱かせる。身体から離れた身体の一部、あるべきところにないものとして、「汚い」「気持ち悪い」「居心地悪い」「不安」という思いをもつとあります。本を読みながら「なるほど」と思ったことです。私たちは、無意識の中にある「普通」に支配されています。
無意識下にあるものを意識化する。これは心理学をはじめ、さまざまな分野で研究されていることです。これは浄土真宗においても言えます。無意識下にある普通の一つに、人は思い通りになったことの中に喜びや安心を見いだすことがあります。欲望というギラギラしたものではなく、当たり前の普通のことです。しかしその普通が私を苦しめるのです。
以前、終末期にあるKさんという女性とお会いしたことがあります。Kさんは、手術後の胃がん再発で治療を断念して、訪問ケアを受けておられました。ご自宅にお伺いすると、一方的に子どものときからのことを取りとめもなく語られました。それは、いまの惨めな現実の原因はどこにあるのかといった回想をされているようで、家庭や人間関係のなかに生じている不幸の原因は自分にあったという後悔と、では自分はどうすれば素直な自分になれるのか。諦め切れない悔しさ、やり直せたらやり直したいという思い。こんな思いや後悔を持ちながら死んでいかなければならない不安を語られたあと、私を見つめ「「なぜ、わたしはこんなに苦しまなければならないのか」という問を投げかけてこられました。私は率直に「それはあなたの欲が深いからです」と言いました。それから十分くらい会話をしていたら、突然「わたしはなぜこんなに欲が深いのか」と大きなため息をつかれたのです。
その後、担当の医師からいただいたメールには、「Kさんは、ご家族に看取られて亡くなりました。心の葛藤は最後まで続いていましたが、次第に険しさ、厳しさは和らいでいきました。特に西原様のお話のなかで安心する部分があり、明らかにある種の変化が感じられました」と記されていました。
Kさんを苦しめていたものは、「思い通りになったことのなかに安心する」という無意識の感情であったようです。その無意識の中にある私が明らかになるとき、その苦しみを違う視点で捉えないすことができるようです。
私の中にある最も見えにくいことは「煩悩を具足せる凡夫人」(浄土真宗聖典『註釈版』550項)であるということです。阿弥陀仏の摂収不捨の救いを領受するということは、凡夫である私が可視化されることであり、その凡夫の私を仏と同質の存在と見てくださる阿弥陀仏の智慧と慈悲に開かれて行くことでもあります。
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