ある会合で“凡夫の自覚”が話題となりました。本来凡夫とは、凡夫であるという自覚のない者を言います。
仏とは覚者のことですが、善導大師がその著“玄義分(げんぎぶん)”の中で、「自覚覚他、覚行窮満(じかくかくた、がくぎょうぐうまん)、これを名付けて仏とす」と説かれています。最初の自覚は、自覚のない凡夫に選別した言葉です。ついでい言えば、覚他とは、他の人を覚らせる心のない声聞(しょうもん。独覚をめざす)でないことです。覚行窮満は、未完成の菩薩でないことを示しています。
では最初の自覚とは何か。動物でのわが子を気遣い大事にする習性があります。わが子だけでなく、すべての人を気遣い大事にしたいという仏の領域に出会ったとき、初めて人は、すべての人を気遣い大事にしたいと思えない自分が明らかになります。仏さまの願いに触れたとき、凡夫の自覚が起こってくるのです。だから凡夫の自覚は、仏の願いや光に触れた証しでもあります。
そう考えると、観音菩薩のような理想に生きようと説かれる『般若心経』も、凡夫の自覚をそくすお経として意味があるように思われます。単に、お経と顕説の当面だけに触れるのではなく、『般若心経』においても阿弥陀さまの願いに触れることが出来るようです。
仏とは覚者のことですが、善導大師がその著“玄義分(げんぎぶん)”の中で、「自覚覚他、覚行窮満(じかくかくた、がくぎょうぐうまん)、これを名付けて仏とす」と説かれています。最初の自覚は、自覚のない凡夫に選別した言葉です。ついでい言えば、覚他とは、他の人を覚らせる心のない声聞(しょうもん。独覚をめざす)でないことです。覚行窮満は、未完成の菩薩でないことを示しています。
では最初の自覚とは何か。動物でのわが子を気遣い大事にする習性があります。わが子だけでなく、すべての人を気遣い大事にしたいという仏の領域に出会ったとき、初めて人は、すべての人を気遣い大事にしたいと思えない自分が明らかになります。仏さまの願いに触れたとき、凡夫の自覚が起こってくるのです。だから凡夫の自覚は、仏の願いや光に触れた証しでもあります。
そう考えると、観音菩薩のような理想に生きようと説かれる『般若心経』も、凡夫の自覚をそくすお経として意味があるように思われます。単に、お経と顕説の当面だけに触れるのではなく、『般若心経』においても阿弥陀さまの願いに触れることが出来るようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます