仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「領解文」肯定派の意見②

2023年09月26日 | 浄土真宗とは?
昨日の続きですが、おなじ『中外日報』(2023.9.15日号)にあたらしい「領解文」肯定派の意見が掲載されていました。

 
外部からの視点を大事に新しい。

「頷解文」について肯定派の僧侶は、教学の問題を中心に議論されていることを危惧し「教学論争をするのではなく、外部からの視点が大事」と訴える。
 -多くの指摘がある「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」はどう理解されますか。

 僧侶 この文言については「無碍光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」「本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して 煩悩・菩提体無二と すみゃかにとくさとらしむ」「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおおきに徳おほし」「十方無碍光の 大悲大願の海水に 煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり」という和讃があります。
 また勧学寮による解説や、勧学の満井秀城・総合究所所長が解説をされていますので、基本的にはこれでいいと思います。「本覚思想だ」という反対派からの批判もありますが、それなら反対派の人々は「本覚思想とは何か」「新しい『頌解文』のどこが本覚思想なのか」「本覚思想の何が問題なのか」を明らかにする説明責任があります。仮にも天台教学の核心ですから、これは相当の覚悟をもって批判しなければなりません。
 ただ、根拠として和讃を挙げたりして細かく教学論争をすることは、あまり意味がないと思います。新しい「領解文」は「難しい教学用語を用いず、わかりやすい言葉で丁寧に」(西本願寺・慶讃法要特集『中外日報』2023年3月17日付)という目的で作られたはずですから、それに対する批判自体が「難しい教学用語を用い」て「わかりにくい言葉で重箱の隅をつつくように」なされたのでは意味がありません。
 あそらくご門主は「旧領解文」の表現もさることなが、特定の教学の専門家たちが自分たちにしか分からないような議論をして自己満足し、宗学というコクーン(繭)の中で自己完結している、しかもそれに気付いていない、そのこと自体がもう完全に現実社会から遊離していて、人々の苦悩や不安に寄り添っていない、ということをおっしゃったのだと思います。

―外部からの視点を意識すべきだと。

僧侶 社会からどう見られているか。少し硬い言葉で言うと、教団の社会的存在意義に敏感であれ、ということです。問題は、外部からの視点によって示された姿に誠実に向き合うという「客観性」の担保であり、自分の思いや正義感などの「主観性」の貫徹ではありません。比喩として正確かどぅかは分かりませんが、前者はM・ウェーバーのいう「責任倫理」、後者は「心情倫理」といえるかもしれません。いま私たちが聞かれているのは「責任倫理」です。
 ご門主は様々な場で、宗門が戦争協力や差別や偏見を温存助長してきたことに触れられています。これはまさに「外部からの視点」です。教学者の発言が、教学者自らの意図ではなく、それがもたらした結果から(外部から)逆に聞かれたわけですから。この問い掛けの延長線上に新しい「領解文」があるし、読んでほしいという、ご門主の願いではないかと思います。外部の視点を含めて「新しい鴒解文」を読む必要があります。
 また外部からの視点に関係したことですが、議論に「ご門徒の視点」がほとんど登場していません。教学者や僧侶にとって大事なことは、教えの正確な理解や儀式の厳格な執行ですが、これらはやはり内向きの営みであって、そんなことばでは外部からの視点は持てない。ご門徒というのは、一方で教団の内部にありながら同時に外部にも関わっているという極めて貴重な存在です。この貴重な人々の視点を取り入れるべきです。(以上)
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