仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

日本人無宗教説

2023年09月07日 | 現代の病理
『日本人無宗教説 ――その歴史から見えるもの』(2023/5/18・藤原聖子編集)からの転載です。

「おわりに」藤原聖子

最後に、ではこれからどうするかについて考えてみたい。
 第一に、今後も、その時代に合わせて欠落説―充足説-独自宗教説を繰り返す人たちは出ると思われるし、本書はそれを止めようとするものではない。通覧して気づいたことだが、多くの日本人無宗教説の主眼は、(無)宗教を論じることではなく、他のことにある。社会に対して真摯に警鐘を鳴らしたい人たちにとって、無宗教説は、細かい説明抜きに自分の主張を他者に伝えるのに効果的な手段であることが、その人気ぶりから窺える。ただし、その受け手となる人たちは、本書が示してきた過去の議論を頭の片隅に入れておいていただけたら幸いである。
 第二に、研究者には、読者から最後に「でも、本当のところはどうなのか? 日本人はやっぱり無宗教なのか? それとも?」という質問が出たらどうするかという課題が残っている。問題は、価値評価を含んだ「日本人には宗教がない」という最初の一撃以来、研究者本人は客観的なつもりでも、自ら「宗教」を定義し、「日本人は……」と言おうとすると、欠落説―充足説―独自宗教説の無限ループに引き込まれてしまうところにある。
ではそのループから抜け出すにはどうするか。一つには、自らは宗教を定義せず、社会の中でどのように宗教・無宗教の切り分けがなされているか、そこでは何か基準とされ、結局何を言うために議論が展開されているのかを分析することに徹するやり方がある。本書はそのような研究の一例にかっている。
 もう一つの方法は、宗教という概念そのものを見直すことである。この概念には、キリスト教の「信仰か行い(業)か」の不均等な二分法がまとわりついている。不均等というのは、信仰の方が行い、すなわち儀礼遂行・戒律遵守・善行の実践などよりも重要であるという価値を伴う二分法だからである。プロテスタントは救済に必要なものは信仰のみだと言い、カトリックのことを行いにも頼っていると批判した。同じ。匸一分法は他宗教、特に多神教にも向
けられた。多辯教徒は儀礼ばかり行い、信仰対象は惆俾だと批判したのである。同じ理山で、何の神が祀られているかもよく知らずに神社でご利益を願ったり、祭りを行ったりすることは宗教とは言い難いとされた。
 もちろん、少ながらぬ宗教学者が、信仰中心主義ではないとらえ方を提案してきた。最近の例でいえば、日本人と宗教の関係を、「信仰なき実践」(葬式仏教や初詣)、「信仰なき所属」(神社や檀家)として特徴づけた岡本亮輔の試みがある(「実践」は右の「行匸に該当寸千。これは無宗教化するヨーロッパ人を表すイギリス宗教社会学の概念を修正しながら日本に適用したもので、よって日本の(無)宗教をユニークと最初から決めつけることのない、国際的な比較可能性に開かれたとらえ方である。だが、「信仰」対「行い」という二分法を踏襲すると、どうしても「信仰がないのか。それは残念」という価値判断を払拭できないように思う。最初の一撃が与えたコンプレックスはかくも根強い。この二分法自体を用いずに別の観点から「宗教」概念を分析する、あるいはそう言ってば「宗教」を先取りしてしまうなら、別の観点から「宗教的なもの」概念を新たに構築することはできないか。これまでは「スピリチュアリティ」がそのために提唱されてきたが、これもまたキリスト教世界の「教会」対「神秘主義」という二分法の影響が強い概念であり、この課題はなお根本的なものとして残っている。
 他に、欠落説―独自宗教説の反転が起こるしくみを説明するなら、ループにはまらずに「日本人はやっぱり無宗教なのか? それとも?」に答えることに貢献すると思われるので、最後にその説明を試みたい。この反転とは、強い信仰を持つ一部の人たちは、その対象がマルクス主義であっても「宗教」的に見えるが、信仰がなさそうで人間関係に縛られている大勢の人たちもまた「宗教」的に見えるというパラドクスのことである。
コメント
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